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■「拉北者たちの沈黙」 第三回

 横田めぐみさんの夫、金英男(キム・ヨンナム)氏を拉致したとされる元北朝鮮工作員金光賢(キム・グアンヒョン)氏が韓国の日刊紙のインタビューに答えている。だが肝心な点は全く不透明だ。

《以下引用》
 「本当に申し訳ありません。しかし、私が工作し、拉致したのではありません。私は船で任務についていましたし、拉致は工作組の仕事でしたから。私は金英男さんの顔も知りません。それでも結果的には金英男さんの拉致を手伝ったわけで、子を失ったご両親には本当に申し訳ない思いです。1978年、群山機械高校1年生だった金英男さんを群山仙遊島海水浴場で拉致したとされる金光賢さんが口を割った」(4月15日 韓国『朝鮮日報』)《引用ここまで》

 自分は見てもいない、といわれれば確かめようもない。警視庁はソウルに捜査員を派遣し、金光賢氏から情報を引き出したい意向だという。DNAではほぼ一致したものの、金英男氏のその先のことについて、どれだけの情報を金光賢氏から引き出せるのだろうか。

 もうひとつは韓国政府の出方である。歴史にもし、はないが、もし韓国政府がもっと積極的に動いていたら(いまのような北朝鮮との融和的な環境はできなかったかも知れないが)、拉致問題解決に向けた作業はもっと進んでいただろうか・・・。

 現実には、韓国人拉致被害者とその家族は沈黙を余儀なくされてきた。その背景に迫る。題して『拉北者たちの沈黙』の第3回。

□息子の証言
 韓国政府は、拉北者問題は静かに非公開で処理するのが望ましい、とし、北朝鮮を刺激しないほうが拉北者の安否確認にはプラスという立場を堅持してきた。確かにひとつの理屈には違いないが、拉北者家族協議会にすれば、国交交渉再開の優先条件として拉致被害者問題を掲げ、北朝鮮側にプレッシャーをかけている日本政府の姿勢との差はあまりにも大きい、と映らざるを得ない。当事者の思いの強さではある。

 拉北者問題について情報機関である国家情報院が発表した数字によれば、朝鮮戦争の停戦協定(1953年7月)締結以降2000年までに拉致された韓国人は486人。うち漁船員が435人と最も多い(注⑦)。漁船員の多くは1960年代から70年代にかけて、近海で操業中に拉致された。

 このように連続して起きた大量の拉致事件にも関わらず、独裁政権時代の出来事であったことが家族には不幸をもたらした。家族らは連座制を恐れ、拉北者を探すどころか息を殺して暮らすしかなかったのである。

 崔祐英さんはいう。
 『韓国政府は、拉北者という言葉は敏感なので離散家族(注⑧)問題に含めて解決するという立場を繰り返してきただけでした。拉致はテロであり、明らかな犯罪行為です。北朝鮮が日本人拉致を認める一方で、韓国人に対しては謝罪どころか問題そのものを認めないのは無能力な韓国政府に原因があります。私が東京で会った蓮池さん(注⑨)の母親は、20歳の息子が新潟の海岸で行方不明になってからあまりにも泣いたので〈鬼〉のような顔で25年間を過ごした、と話してくれました。そのお母さんがいまは生きている息子の手を握って感激の涙を流している。韓国の拉北者家族が、感激の瞬間を迎えられるように手助けをしてくれる大統領はどこにいるのでしょうか。埋もれた拉北者問題を掘り起こし、解決してくれるリーダーはいないのでしょうか』(注⑩)

 2002年の初めに「拉北者家族協議会」が正式に発足してから、被害者家族たちの拉北者を帰せ、という叫びは日増しに高まっていた。加害と被害さえ曖昧なまま我慢するしかなかった拉致事件発生当時から、30年前後という年月が経ち、ようやく正々堂々と声を大に発することができたのだった。

 仁川港でチャーターした小型漁船が沖を目指す。
 海面を吹き抜ける秋風が心地よかったが、私は乗船してもらったひとりの若者の気持ちに思いを馳せていた。若者といっても年は28歳。父親とは7歳の時に別れたままだといった。父のあとを継いで漁師となった彼もまた声を大に、事件を語り始めたひとりだった。

 1974年の1月のことでした。
 父は魚を獲るために仁川港を出発して沖に出たそうです。船は2隻で、白翎島付近で1隻が爆破され、もう1隻は拉致されました。父は爆破された船に乗っていたそうです。しかし、漁船に乗っているとわかるのですが、危険が察知できれば漁師はまず海に飛び込むものです。だから父はいまも生きていると信じています。

 そのときに父の兄弟3人も拉致されました。同じ船に乗っていたそうです。みんな大黒柱を失ったために、この事件のあと従兄弟たちとはバラバラになってしまいました。

 よく父は船から帰ってくると、家に漁師仲間を連れて来てお酒を飲んでました。子供だった私はみんなからお小遣いを貰ったことを覚えています。生死すら確認できないわけですから、いまもって秋夕(お盆)の法事もできません。

 北朝鮮の仕業に間違いがないかですか?私は間違いがないと思います。というのは、新聞も当時拉致されたと発表しましたし、新聞によれば抗議大会も頻繁に行われたということです。なぜ北朝鮮が拉致したのかはよくわかりません。父もそうですが、拉致された漁民は皆それぞれ家庭の大黒柱として家族を養うために魚を獲りに行ってるのに、拉致するねらいがなんなのかさっぱり理解できません。

 その当時、私は7歳で弟は4歳でした。末っ子は父が拉致される3日前に生まれました。だから父の顔も見てないのです。ラジオでした。ちょうど末っ子が生まれた日に病院のラジオのニュースで拉致されたことを知りました。

 父がいなくなってから兄弟3人は母の実家に預けられました。父に代わって母は仕事をしなければならなかったからです。私には学歴がありません。中学を卒業して高校も1年で退学しました。就職しなければ生きていけませんでしたから。それ以来、家族がそろって暮らしたことがありません。いまもバラバラです。父親がいないというのは大変です。私は長男ですから誰かに頼るというわけにいきません。そういえば父も長男でしたから、祖父はあんなことになってからはやり場のない怒りを抑えきれず、お酒に浸り、結局亡くなりました。生活が苦しいときにはどうしてこういうことになるのかと、本当に父を恨みました。

 私の親戚ですか?事件のあと釜山に越したりしました。もう年の人も多いですし、連座制というものもありましたから、お互いあまり連絡を取っていません。連絡を全くくれない人もいます。連座制というのは、拉致された人たちがスパイになって帰って来るかも知れないということで、私たち残された家族も厳しく監視されたんです。

 当時の朴正熙政権だけではなく、全斗煥政権も盧泰愚政権も監視を厳しくしたので、年配者はいまだに当時のことを思い出し、口を閉じているんです。それに例え私がどんなにいい大学を出たとしても、身分照会で引っかかれば就職はできません。とても苦しかったです。友達に聞かれても父は死んだというしかなく、拉致されたとはいえなかったのです。そうでなくても子供のころは、おまえはスパイの子扱いでしたから。

 そうです。離散家族問題と拉北者家族問題はあくまでも分けて考えるべきです。離散家族は戦争で生き別れになった人たちのことで、拉北者は戦争後に、仕事中の人間を強制的に連れて行ったわけですから。金大中政権は離散家族だけで拉北者についてはなんの対策もありません。

 日本の首相は自国民を保護してくれているのに大統領はなぜわれわれ国民のことを守れないのか、本当に腹立たしい限りです。

 話し終えた朴槿均さんは一葉の写真を見せてくれた。父、朴慶元さんの写真だった。
 「父は今年(2002年)60になったはずです。この写真がいくつのときに撮られたものかはわかりませんが、拉致は28年前でした。ですからそのときは32ですか・・・・。実は父のことは忘れようとしたんです。思い出すだけでも辛いですからね。でもいまは父のことをもっと知ろうと努力するようになりました」

 父親の朴慶元さんらが拉致されたという白翎島はまだずっと先だったが、この日私たちが漂った仁川沖の海は、28年前に起きた拉致事件を知らぬかのように凪いでいた。(第4回に続く)

(注⑦)拉致にはほかに海外で拉致された人、日本と同じように韓国内の海岸で拉致された高校生などのケースがある。

(注⑧)離散家族・・・朝鮮戦争の混乱のなかで離れ離れになって住む家族のことをいい、南北合わせて1千万人以上に上るといわれている。南北首脳会談後に再会が実現した。

(注⑨)蓮池さん・・・日本人拉致被害者のひとり、蓮池薫さん。
(注⑩)『朝鮮日報』2002年10月17日。
 

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