《以下引用》
「14日付の韓国紙・朝鮮日報は、横田めぐみさんの夫である可能性が高まった韓国人拉致被害者、金英男氏を拉致したとされる元北朝鮮工作員が現在、ソウルに住み、自営業を営んでいると報じた。関係者らの話として伝えた。
同紙によれば、元工作員は海上ルートで韓国に侵入し、韓国に派遣したスパイを北朝鮮に帰還させる任務を担当。しかし1980年に侵入に失敗し、逮捕された。その後、転向して韓国に帰化、結婚して現在ソウルのマンションに居住しているという。元工作員の妻は同紙記者に対し、「話すことはない」と取材を拒否した」(4月14日『時事通信』)《引用ここまで》
分断下の朝鮮半島では、統一を目指す動きとして熾烈な情報活動、工作活動が行われてきた。そのひとつが日本人や韓国人始めとする拉致である。そのような活動に関わってきたとされる人物は金光賢氏。
工作員によって拉致された韓国人は485人。その多くは船員だった。
『拉北者たちの沈黙』の第2回目は、一通の手紙から始まる。
□訴え
金大中大統領(当時)のノーベル平和賞受賞の大きな業績とされた南北首脳会談(2000年6月13日~15日)から一年半以上経った2001年11月下旬、一通の手紙が青瓦台(韓国大統領官邸)に届いた。
手紙の一字一句に表現された切実な言葉は、実は韓国政府としても十分理解できるものであったに違いないのだが、〈ボタンの掛け違い(注①)〉から放っておかれた課題だった。
金大中大統領閣下
わが家族の生還を心から願い、このお手紙を差し上げます。
家族の姿を目にしなくなって数10年、長い間、家族の記憶をいつかは戻るという望みに託して私たちは生きてきました。家族が北朝鮮に連れ去られたことで、残された私たちも拉致同然の苦痛を味わいました。家族が拉北(北朝鮮に拉致されること)されてまもなく残された私たち自身も政府による監視と拷問、そして連座制(注②)によって、塗炭の苦しみを味わいながら生きてこなければならなかったからです。
私たち拉致被害者家族は、熱い思いを持ってあの歴史的な首脳会談を見守りました。南北の首脳が会ったのだから、夢にまで見た拉北者にも遠からず会えるという期待で胸が躍りました。そして南北首脳会談に続いて開かれた閣僚級会談では、6・25(朝鮮戦争)で別れ別れになった離散家族と同様に拉北者問題も主要な議題になる、といわれましたが、離散家族の再会は進んだにも関わらず、私たちの問題はいまだ議論さえなされておりません。なんのために私たちは耐え忍んだのか、その甲斐がありません。
北朝鮮当局が拉致を認め、家族を帰してくれるだろうと信じている人は誰もいないでしょう。だからこそ政府の強力な意思と努力なしにはこの問題の解決は絶対にあり得ません。しかし、これまで政府が見せてきた態度には失望を越えて怒りしか呼び起こしません。
いったい政府には拉北者問題を解決しようという意思があるのでしょうか。政府はこの問題の解決のためにこれまでなにをしてきたのでしょうか。疑わざるを得ません。
「帰してくれ、生き別れになったままの家族を帰してくれ!」
私たちの叫びにも関わらず、返ってきたものは冷淡だけです。自国民が被害に遭っているというのに返ってきたものは冷淡だけです。
政府は家族の心情を本当にわかっているのでしょうか。
南北首脳会談以降、政府は北朝鮮が嫌がることは決して切り出さない、という姿勢を貫き通してきました。このような政策が自国民保護という国家の基本的な責務を捨て、相手にだけは譲歩するという矛盾を生んできました。このような政府の姿勢が恨めしいです。
私たちは拉北者問題を離散家族の範疇に入れて解決することを望んではいません。それは根本的な解決にならないからです。
拉北者問題を解決する道はただひとつだけと私たちは確信しています。それは政府がいうような南北関係が改善されれば拉北者問題も解決できるということではなく、拉北者問題が解決されてこそ南北関係の改善ができる、と信じているからです。
国民の皆様にも訴えます。私たち家族に力を貸して下さい。政治家、言論人、有識者の皆様にお願いします。
数日前、拉致された2人の方が北朝鮮を脱出しました(注③)。しかしこのようなひとりひとりの力に任せるのではなく、拉致は容認できない、ということを金大中大統領に強く要求します。
私たち家族に太陽の光をあてて下さい。連れ去られていった家族を私たちの懐に返して下さい。(原文は韓国語)
2001年11月25日 拉北者家族代表 崔祐英
韓国の新聞によると、拉北者家族代表の崔祐英さんの父、崔宗錫さんは1987年1月、南北を隔てる海の国境線(北方限界線)近くに浮かぶ白翎島(注④)の公海上で操業中、12人の乗組員ともども北朝鮮の警備艇によって拉致された。
当時、韓国政府は拉致と発表したが、北朝鮮側は、漁船は北方限界線を越えて偵察行為をしていた、として漁労長だった崔宗錫さんらをスパイ罪で逮捕した。その後、1993年に金泳三政府は送還を要求したが実現しないまま時だけが過ぎた。
冒頭に掲げた訴えの手紙を送った翌2002年1月、拉北者家族の集まりとして「拉北者家族協議会」を立ち上げた崔祐英さんは、政府を相手取って名乗りを上げた12人の家族と共に訴訟を起こした。
『政府は太陽政策の成功だけにこだわり、拉北者問題については知らぬふりをしてきた。2000年の南北首脳会談の際にも、拉北者の生死確認問題を会談の案件から完全にはずしていた。これは憲法の定める国民の生命と自由を保障する義務に違反している』(注⑤)
崔祐英さんらがソウル地裁に求めた賠償金は2億4千万ウォン(邦貨で約2千4百万円)。だからといってお金に換算できる日々であったはずは、もちろんない。
訴状の提出から8ヶ月経った2002年9月、金正日総書記は小泉首相との会談で日本人拉致の事実を認め謝罪した。5人生存、8人死亡、という情報は多くの日本人を驚愕させたが、崔祐英さんら韓国の拉北者家族協議会の受け止め方は違った。
『日本首相が直接拉致問題を取り上げるから北朝鮮も答えている。韓国政府も意思さえ持てば(拉北者の帰国問題も)解決できる時期ではないか』(注⑥)(第3回に続く)
(注①)〈ボタンの掛け違い〉・・・金大中大統領と金正日国防委員長(いずれも当時)の南北共同宣言では①統一②人道③経済④継続的な対話⑤金正日総書記の訪韓などが謳われた。そのうち人道問題では南北に離ればなれとなった離散家族の再開などが話し合われたが、冷戦時代に拉致された韓国人などの問題については不問とされたままだった。北朝鮮を必要以上に刺激したくない、という思惑が韓国側にあったとされる。後日、南北問題を専門に司る統一院のある職員は、あれは〈ボタンの掛け違い〉だったと私に話してくれた。
(注②)連座制・・・ある人の犯罪行為の責任を、本人だけではなく家族などにまで及ぼす制度。南北の対立が激しかった時代、韓国の情報機関は拉北された多くの韓国人漁夫たちの家族に対して、拉致ではなくスパイだったのではないか、家族もまたスパイから連絡がきたり、匿ったりしているのではないか、という猜疑心で捜査を行った。漁夫の罪は家族の罪、という連座制が適用されたからだ。
(注③)拉北者の脱北・・・2000年7月と2001年11月、2人の拉北者(李在根・陳正八)が中国を経由して韓国に脱出した。2人は共に漁船員で1970年代前後に拉致された。
(注④)白翎島・・・南北を隔てる北方限界線に最も近い韓国最北端の島のひとつ。韓国有数の漁場でもある。
(注⑤)『朝鮮日報』2002年1月15日。
(注⑥)『朝鮮日報』2002年9月18日。
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