アルブニヨルの谷間 フリオとその家族
優子はいつものスーパーに向かう坂道を自転車で下っていた。大通りを通って行くこともできるのだが、カルロスの自動車修理工場の手前から細い道を下っていけばスーパーまでの近道になるので、いつもカルロスの店の前から右折して急な坂道を下っていた。ホセのレストランを過ぎたところだった。人がやっと一人通れるぐらいの細道から、突然、ホセの娘のマルティナが笑いながら飛び出してきて通せんぼをした。たぶんマルティナは、悪気はなく、優子を脅かそうとしただけだったのだろう。優子が急ブレーキをかけると自転車の後輪が浮き上がり、ほほ一回転する形で転倒した。
流産をしていることは病院のベッドで眠りから覚めて間もなくフリオの口から告げられた。
「ごめんなさい」
やっとの思いでフリオに言った。
「優子は謝る必要は無いよ。僕がついていてあげられなくてごめんなさい」
フリオは優子に謝られたことに気が動転していた。なにもフリオはわるくないのに。
優子は、おなかの中の子供を失ったという実感よりも、優子の心の中でこれまで築き上げてきたスペインに対する観念のようなものが急速にフェイドアウトして、愛するフリオと探検をしてまわったアルブニヨルの谷間も、雪を頂いたシェラ・ネバダの山々も、コスタ・トロピカルの陽光に彩られた美しい海岸線も、アンダルシアの風にそよぐひまわり畑もすべて色を失い、闇の中へ落ちていくような感覚に捕らわれた。
変わって、これまで心の片隅に封じ込めてきた正反対の想い、どんなに心を寄せても優子を受け入れようとしない異国に対する憎しみに似た感情が堰を切ったように心の中にあふれ出てきた。優子はあふれ出てくる想いに必死で抗おうとするのだが、もう一人の自分が醒めた目で見つめており、それが優子の抗おうとする気持ちを次第に萎えさせていった。
フリオとの話の後に、病室にフリオの母が入ってきた。
母は病室に入ってくると、何も言わずにベッドに近づき、私の手を握り、涙を浮かべ、優しく私を抱きしめた。フリオと同じように優しい心を持った人だ。
退院後はフリオの家族以外、みんなが自分を非難しているように思えた。
「無神経な奴ら・・・・」
玄関先で屋上で道端で、一人で数人で大勢で、じっと優子を窺って、あたかも優子を監視するかのような視線を投げかけてくる。
この町にやってきて、しばらくの間は気にもならなかったのだが、最近はその視線に苛立ちを感じながら過ごしている。時折、優子の方から大きな声で、
「オラ!」
と呼びかけるのだが、大半の場合、いったんは視線を逸らすのだが、またしばらくすると視線を絡めてくる。日本人よりも好奇心が強いだけで、悪気はないのだと思い込もうとするのだが、やはりその視線に耐えられない。田舎町で東洋人は自分一人であることを考えると解らなくもないのだが、苛立ちは日毎に増幅されていった。