以下は私が50歳、20年近く前に妻に書き連ねた日記です。このときに考えていたような人生は歩んでいませんが、妻とはケンカをしながらも仲良くやっています。
私は心理学でいう「自我同一性の確立」を果たしたのでしょうか。私は67歳に近づいていますが、自分が何者かについて、自我同一性の確立を果たしたかどうかについて自信はありません。未だにフラフラと思い悩んでいます。
まあ、人生とはそんなものだと思っています。
「セカンド ステージ」平成十五年十一月一六日
僕は後一ヶ月余りで五十歳を迎えようとしている。
小学生の頃、僕は社会科の先生になりたかった。建築家になりたかった。
中学生の頃、僕は小説家になりたかった。映画監督になりたかった。
高校生の頃、僕は自分が嫌で嫌で仕方なく、自分自身を見失っていた。
大学生の頃、僕は商社マンになって世界を駆けめぐりたいと思っていた。
おまえと出逢うまでの僕の将来の夢と言えばこんなものだったと思う。
中学生の頃からおまえと出逢うまで書き続けてきた何冊もの日記帳も、今では何処に行ってしまったのかも分からなくなって、その頃の自分の心の中を覗くことはできなくなってしまった。
これまで、仕事にかまけて家庭を顧みず、時には目的と手段が入れ替わってしまって、おまえにつらい思いをさせたこともあったと思う。しかし、結果から言えば、銀行員として、そこそこの出世もしたし、お互いにとって、まあまあの、これまでの人生であったと思う。
僕はこのまま銀行が奨める出向先で、第二の職場で、これからの人生を送るべきなのだろうか?確かに経済的な問題はある。銀行が奨める第二の職場の方が、おそらく安定した生活が望めるであろうし、それはそれで有意義なのかもしれない。しかし、人生の終わりを迎えるとき、僕は自分の人生を振り返って、満足のいく人生であったと、心から思えるであろうか。僕は自分の人生に及第点を与えることができるであろうか。
こんなことを言っていると、「相変わらず、馬鹿なことばかり考えている。人生なんて点数をつけるようなものではない」と、困った顔をしているおまえが目に浮かぶようだ。
しかし、二度とない人生を、病気や事故に見舞われることさえなければ、まだ二十年以上も残っているこれからの人生の大半を、銀行からのお仕着せの仕事で費やしてしまいたくはない。
これまで僕は自分の人生は自分で切り拓いてきた。人生の終わりを迎えるその日まで、自分の人生は自分だけのものであるという実感を抱きながら生きていたい。勿論、最愛の妻であり、僕の人生の拠り所であるおまえを蔑ろにするようなことはしない。おまえに対するリスクは最大限に回避しながら、これからの新しい人生を創り上げていきたい。
人と優しく関わる仕事に就きたい。地位とか名誉とか金銭とか、そんなこととは無縁の世界で、これからの人生を過ごしたい。人との利害関係が対立する職場で、自分自身にそのつもりはなくても、結果的に他人を裏切ることとなったり、また、他人から思わぬところで陥れられたり、梯子を外されたり。そんなことで自分の心をすり減らすことには、正直に言ってウンザリしている。少年ではないのだから、そんなことは社会人として生きていく以上は、避けられないことであることは十分理解している。しかし、人に優しくすることで、これからの生活の糧を得られることができたら、どんなにか素晴らしいことだろうと思う。僕は、これから二十年は働く。
今までの、おまえを好きになり、おまえと結婚し、銀行員として頑張ってきた人生とは違う、自分のための人生、自分の心にも優しい人生を精一杯生きてみたい。自分の第二の人生に悔いを残さないように思いのままに頑張りたい。これからの二十年を、今までの自分とは違う生き方で過ごしたい。
僕は今、自分のセカンドステージの目標として、臨床心理士を目指そうと考えている。
十一月十八日
これから自分のための人生を送るためには、銀行からのお仕着せではない人生を過ごすためには、資格が必要だ。自分の経験を活かすとすれば、公認会計士、税理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士といったところだろう。しかし、どれも今までの仕事と本質的な違いはない。僕の性格からすれば、また、人一倍、頑張ってしまい、結果的に人を傷つけたり、自分が傷ついたりしてしまう。おまえは「第二の人生だから、精一杯頑張らずに、肩肘張らずに、これまでの自分の人生を活かした職業で気楽にやればいい」と言うだろう。 しかし、おまえも知っているとおり、僕には多分それができない。
十一月十九日
おまえは僕が十九歳の時から僕のことを見続けているので、良く分かっていると思うけれど、僕は若い頃から、哲学とか、心理学とか、そういった人の心に関わるような分野に興味を示していた。ここ何年かの間では、アダルトチルドレン、多重人格、脳の仕組み、男と女の違いを説いた本に熱中していた。僕が何故そんなことに興味を示すのか。それは多分、未だに自分自身の存在に自信を持てないでいるからだと思う。心理学の用語で言えば「自我同一性の拡散」。そんな状況を未だに引きずっているのかもしれない。自分が自分であることをいつも否定している。自分の存在の唯一の拠り所は「おまえ」でしかない。しかも、そのことについても時折不安になる。
おまえのことだから、もうすっかり忘れてしまっているかもしれないが、随分と昔、お互いにまだ若い頃、おまえが僕に、「あなたは生き急いでいる。」と言ったことがあった。確かにそのとおりで、僕はいつも焦燥感に駆られながら人生を生きている。
僕が臨床心理士を目指そうと思った背景は幾つもある。
十ニ月一日
「アダルトチルドレン」
「アダルトチルドレン」という言葉は、本来、アルコール依存症家族のなかで育って大人になったアダルトチルドレン・オブ・アルコホリックスに由来する。また、現在では家庭がうまくいっていない「機能不全家族」に育った子供(アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリー)にも適用される。」
「アダルト・チルドレン」は、心理学や精神医学の分野では精神的な障害として認められていない。また、自分自身、自分が精神的な障害を患っていると思えるほどに病的な状況にあると考えてもいない。しかし、「アダルト・チルドレン」の心理的な特徴としてウォィティツが示した十三の「狭義のアダルトチルドレンの特徴」は、大半が自分にあてはまると考えている。
「アダルトチルドレンに認められる十三の心理的特徴」
①正しいと思われることに疑いを持つ。
②最初から最後まで、ひとつのことをやり抜くことができない。
③本音を言えるようなときに嘘をつく。
④情け容赦なく自分を批判する。
⑤何でも楽しむことができない。
⑥自分のことを深刻に考えすぎる。
⑦他人と親密な関係をもてない。
⑧自分が変化を支配できないと過剰に反応する。
⑨常に承認と賞賛を求めている。
⑩自分と他人は違っていると感じている。
⑪過剰に責任を持ったり、過剰に無責任になったりする。
⑫忠誠心に価値がないことに直面しても、過剰に忠誠心を持つ。
⑬衝動的である。行動が選べたり、結果も変えられる可能性があるときでも、お決まりの行動をする。その衝動性は、混乱や自己嫌悪や支配の喪失へとつながる。
そして、混乱を収拾しようと、過剰なエネルギーを使ってしまう。
また、ジョーンズのアダルトチルドレンと認定するスクリーニング・テストの十五項目についても、全てではないにしろ大半が自分にあてはまると考えている。
「ジョーンズのスクリーニングテスト」
①あなたの両親のどちらかに、飲酒問題があると思ったことがありますか。
②親の飲酒のために眠れなかったことがありますか。
③親の酒を止めるように勧めたことがありますか。
④親が酒を止められなかったために、独りぼっちに感じたり、おびえたり、イライ ラしたり、怒ったり、失望したりしたことがありますか。
⑤飲酒中の親と口論したり、喧嘩したりしたことがありますか。 ⑥親の飲酒が理由で、家出すると脅したことがありますか。
⑦あなたの親は、飲酒してわめき、あなたや他の家族を殴ったことがありますか。
➇両親がが酔っているときに、両親が喧嘩するのを聞いたことがありますか。
⑨飲んでいる親から、他の家族を守ったことがありますか。
⑩親の酒瓶を隠すか、中身を流して空にしたいと思ったことがありますか。
⑪飲酒問題のある親が起こすいろいろな困難について思い悩みますか。
⑫親が酒を止めてくれたらどんなによいだろうと考えたことがありますか。
⑬親の飲酒に関して自分自身に責任があると思ったり、罪悪感を持ったことがありますか。
⑭アルコールのために両親が離婚するのではないかと心配したことがありますか。
⑮親の飲酒問題に関する当惑や恥のために、戸外の活動や友人たちとの付き合いを避けて引きこもったことがありますか。
僕は多くの部分で当てはまる。つまり、僕は「アダルトチルドレン」なのだと思う。
十二月四日
とは言え、僕は精神障害者でもなければ、性格異常者でもない。母や姉やおまえや、僕を支えてくれた人たちのおかげでもあるけれど、しごく全うに生きている。「アダルトチルドレン」とは、心のあり方であり、自分自身の認識の問題であるのかもしれない。しかし、たぶん、おまえの言うとおり少し変態気味であるかもしれないが、社会に害を及ぼすような精神状態ではない。
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