今日は帰りが遅くなり、孫たちがいなくなったらギターの練習をしようと思っていたのですが、食事をして自室に戻ったのは10時近くで、近所迷惑になると思い控えました。週に2回から3回は練習をしていて、左手の指にタコができはじめているのですが、まだコード進行がスムーズにできるレベルにはありません。
過去の日記を見ていて、この日記をコピペして更新をしようと思い、投稿しています。
父は90歳で他界しました。その前は、母が父の介護で体を壊し、父は老人ホームに入っていました。時折、母や妻や子供や孫を連れて訪れていたのですが、体調を壊して亡くなる前に母と妻と訪れた時に、
「おまえ、今、なんしヨウトカ。名刺もっとるならクレンカ」というのです。
休日なので名刺入れは持ってきていないのですが、免許証入れに万が一のために名刺を入れていたので、父に渡すと、父は大粒の涙を流しました。
それが父の意識がある前に見た最後の姿でした。
以下は私が父への想いを50歳前半の頃に書いた父への日記です。
父さんへ
この手紙をお父さんに読んでもらおうとは考えていません。お父さんは、40歳代後半から30年以上の間、良き夫であり、良き父親、そして僕の子供達にとっての良き祖父でした。ですから30年以上も前のことを蒸し返して、80歳を超えたお父さんを悲しませるようなことをするつもりはありません。
僕たちが子供の頃、お父さんは、とんでもない夫でした。父親としても失格でした。
酒乱で、女癖が悪くて、博打が好きで、意志が弱くて、家庭を顧みることはありませんでした。
酔っぱらっては、お母さんに暴力を振るい、家を飛び出し、酒と女と博打に現を抜かし、放蕩のかぎりを尽くし、すってんてんになってお母さんに泣きを入れる。そんな時代がありました。
お母さんは、時には怒って、時には泣きながら、
「you。お前は大きくなってもお父さんのような家族を泣かせるような人間にはなってはダメよ」
「you。お前はお父さんとは違うんだから、家庭を大事にして、真面目で立派な大人になりなさいヨ」
と何百回となく、僕に言って聞かせました。しかし、大人というものがどういうものか理解できない自分にとって、お母さんの言葉は、ただ単に自分の将来に恐怖を抱かせるものでしかなかったような気がします。
「お父さんの子だから、自分もお父さんのようになるかもしれない」
「お父さんのようになってしまったら、どうしよう」
僕はそんな恐怖心と戦いながら、それからの人生を生きてきました。
今になって考えてみれば、それはそれで僕の人生にとって良かったのだと思っています。
お父さんの子供だったから、その恐怖心と戦いながら生きてきたからこそ、今日まで自分は幸せな人生を送ることができたのだと思うのです。
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