僕に会うために/りぼんのタッカ
何十年も前の事です。
僕が小学校6年生の時に行われた「私の主張大会」で発表した原稿を先日、母が見つけて、僕にくれました。
「障害を乗り越えて」
6年4組 高島啓之
皆さん、ぼくはこんなに元気で皆さんの前に立っています。
しかし、僕の身体は、一つの障害をもっています。
それは、耳なのです。両方の耳が難聴で皆さんの半分も音を聴き取る能力がありません。
僕の耳の障害は、生まれつきではありません。1歳の時、肺炎にかかってしまいました。高い熱におかされた小さな僕を、何とか助けて欲しいと、僕の両親は、必死になってお医者さんに頼みました。
丁度その頃「クロマイ」と云う、肺炎を治す素晴らしい薬が、アメリカで発明され日本でも盛んに使用されるようになっていました。この薬を使うことにより、ぼくの病気は、日に日に快方に向かいました。しかし、幼い子どもには、薬が強すぎたのでしょうか、肺炎は、治ったのですが、両方の耳が難聴になってしまったのです。
ぼくの両親は、再び大きな悲しみを背負いました。啓之が他の子供達のように学校生活を送ることが出来るだろうか。そんな不安を持って1年生に入学すると、すぐ担任の先生に耳が悪い事を報告し理解してもらい、ぼんやりしているぼくを助けてくださいと、頼みました。
こうして新しい先生に、受持たれる度に母は、必死になってお願いするのでした。
ぼくは、あまり不自由を感じないで生活しているのですが、聾学校の先生に言わせると相当聴こえない音があると言うのです。
補聴器を、使わなければ駄目だと言われました。補聴器を耳にあてて学校へ来ると、皆がぼくを見ているようで恥ずかしいのです。そして、5日間ぐらいしたらはずしてしまいました。
そこで今年の春に、東京の慈恵医大に行ってくわしく検査してもらいました。
その結果、補聴器は、使わなくていいと言われ僕はホッとしました。
文章は、まだ途中で先があるのですが
僕は、これを読んで、あの時の小さな僕と再びきちんと向き合う事が出来ました。
両親や、聾学校の先生から「必要だから」と補聴器を着けらされ、その事で傷ついた小さな僕。でも、必死になって補聴器をつける事に抵抗し反発をし続けた小さな僕もいたのです。
そんな、傷を抱えた小さな僕は、今でも僕の中にいる事もわかりました。
聴くことの恐怖感。音への恐怖感です。これは、今でも僕に付きまとっています。
僕は、自分の中の小さな僕に言葉をかけます。
僕は、今日まで歌を歌い続けてきたよ。歌で落ち込む事も多いけどね。今、小さな頃に僕が書いたこの文章を読んで、どうして、僕が歌い続けてきたのかがわかったよ。歌う事は、小さな僕の傷を癒すことの出来るたった一つのものなんだね。
そして、この文章からは小さな頃の僕の叫び声も聞こえてきました。
僕は、聴こえるよ。音が聴こえるよ。僕なりの聞こえる範囲で音が耳に届いてくるよ。それは、聴こえにくい事は自覚している。でも、補聴器なんか必要ない。つけたくない。だって、言葉としては入ってこなくても、音は、わかるもの。僕に向かっている音。僕に向かって、何かを言っている音だけはわかるもの。僕は、気をつけているよ。耳を澄ましている。時には息を止めて耳を澄ましている。人の目をしっかりと見て、表情をみて耳を澄ますよ。だから、補聴器なんて無理矢理僕につけないで。
と、そんな声が聴こえてきました。
今の僕にとても大切な歌。僕は、この小さな頃の僕自身の経験から歌をもらったんだ。そう思い。自分にありがとうを言った。
小さな僕にありがとう。
先ほどの文章の続きを読みます。
こんな障害を持つぼくにも、大きな夢があります。舞台に立つことです。大きな舞台でたくさんのお客さんの前で歌ったり、演劇をやったりしてみたいです。夢を現実にするために、努力を重ねて行きたいと思います。
僕は、今日まで歌を歌い続けてきた。
僕の歌は、なみとも出会わせてくれました。音楽ユニットりぼんの結成。
2007年。僕と、なみから始まった、音楽ユニットりぼんは、沢山の人達との出会いもくれました。
僕の歌は、今、耳の聴こえない人にも届くようにミュージックサインもついています。
僕の今の歌は、声は、小さな頃の必死の抵抗から補聴器を外した僕からもらったものだ、小さな僕が、必死になってやった難聴からくる音への注意力からもらったものだ。
まだまだ、夢の途中。小さな僕は、ずっと僕の背中を押し続けてきてくれていたのがわかりました。
もっと、歌う。
もっと、大きなステージを目指して。
もっと、沢山の人に、この函館の全部に、僕の声を届ける。
僕の、声を届ける。
僕に会いに行く
今より先の僕にね。
僕に会う為に・・・・