今回は、夢二の次男、竹久不二彦の第2弾です。夢二最も長くともに暮らし、何もかも見てきた不二彦にとって夢二は何だったのでしょうか?3人の”母”と接し、少年山荘でも人の(女性も)出入りの多かった父との不思議な親子関係の一端が見えてきます。
*本文は、『宵待草70年の歳月』竹久夢二展(毎日新聞社主催)図録に掲載された「竹久不二彦(夢二の二男)」です。
(千葉県船橋市船橋そごう(1981.10.16―21)・柏市柏そごう(1981.10.23―28)で開催)
《パパは空気》
わたしの物心ついた頃には「パパは空気なんだ」といっていたのが、最初のおやじ確認の印象でした。わたしの少年の日の大部分が、母子家庭ならぬ、父子家庭であったから、父と子の二人の人生では空気のように絶対必要な、第一のモノが父親であったことによるということでした。そして少年のわたしは、「空気」を精一杯吸い込む仕草をして見せた情景、「パパは空気」の情景を思い出しております。女親の欠けた、男ヤモメの父は「女親の役目」を果そうとして、少年のわたしに、片親の愛情=男親の愛情を、どんなにか重い荷物として育ててくれたことか、そこには少し特異な二重生活が創られていたように思われます。
女親的要素の甘さの強い空気として、父の匂いが少年時代のわたしを包んできたものです。オヤジの外出に必ずこんなひと言を残して家を出たことばもおかしく回想します。
「パパはこれから世の中へ行って来るからね。」少年のわたしには「世の中」とは何か恐ろしい、にがにがしい、あらくれた別世界のように思われたものです。子供のついては行かれない世界である、と納得して留守番をすることにしておりました。それはいつもお手伝いのばあやと二人の留守番でした。
《ちこの世の中》
いつのまにか、わたしは呼び名を、「ちこ」と呼ばれるようになっていました。不二彦の彦をつまって、自分が呼んだものかも知れません。夢二はこの「チコ」を男手で育てるには、大きすぎるような大荷物になった時「世の中」へ出そうとしますが、こんな文章「歌時計」が残っているので写して見ましょう。
ちこへ。
呼びならはした
ちこへ。
呼びならはしたままにこう呼ばう。
お前は4年前母親に別れてからこのかたパパの手許で不自由勝ちに育つてきたが、いまパパの手から知らない手に托されようとしている。それがお前のために最善の方法ではないかもしれないが、今のパパにはこれがもう唯一の仕方であつたことは、お前がやがて成人の後にわかつてくれるであらう。
今にしておもへばお前は生れ落ちるから十字架を負つてきたのだつた。さうなる運命を誰が知つてるだらう。パパはただ力の足りない自分を知つてゐるばかりだ。そしてお前は、パパにとつても二重の十字架ではあつたが、ほんとうに親としての責任と愛情とをパパに教へ、パパの生活を、つねに浄化し高め力づけてくれたことは忘れない。
かうなると数奇な運命の悪戯も、ただの悪戯ではなかつたのだ。パパは実に善良すぎた。そして力の弱かつたことが、パパの生活をつねに濁し乱してきたのだ。お前を他人の手にゆだねたからとて、パパの責任が軽くなるのではない。ただパパはお前が一人前の人間になつてからパパについて考へるようになつた時、パパは好い床木であつたと言へるやに、パパもやるつもりだ。お前はまだほんの接木されたばかりの芽生に過ぎないが、太陽の光と熱とをうんと吸つて、接木のあとのわからにほど、素直にずんずんと大きくなつてくれ。
今日はお前の第8回目の誕生日だ。そして今日は、五月姫(めいくゐん)が年若い男女に交つて若草の野辺に一日遊び暮す、1年中で一番自由な幸福な日だ。記念すべき五月祭(めいでい)に、この歌の本をお前への贈物にすることも意味深いことだ。
1919年5月1日
お前のパパより
《宵待草》
初めて僕が“宵待草”を印象したのは、街で歌唱されている、いわば流行歌の一つとして、街の歌、巷の歌として歌われ聞かされるそういう時でした。
仲間の誰彼が「おい、お前のオヤジさんの歌だぜ!」
一昔も、二昔も前頃のことだから、カチューシャの歌、かれステキ、ディアボロ、と歌い進むプログラムには、必ず出てくるような一節g宵待草であった。
宵待草の「歌詞」の出生について夢二からわたしに語って聞かされた気憶(ママ)はない。「誰のために」詩がつくられたのか、「いつ」「どこで」の詮索‥‥‥
夢二の心の中には、必ずつきまとう、宵待草と、それを待つひとがあったでしようがそれは聞いておりません。
松原時代、少年山荘のベランダで福田蘭童さんが尺八で、桜井八重子さんがソプラノで歌ってくださったり、夢二の若い友達の小宴には必ず出る宵待草でした。
やはり、詩曲共にすぐれたとり合せで、聞く人の心を捕えた作品でありました。作曲家、多忠亮さんが和魂洋想(勝手な妄言多謝)の極致のような曲を添えて下さったのに依るものだと思います。これは夢二の詩想をまことに深く理解して、表出して下すったと思います、夢二の詩想の底流に在る、地唄の骨組みが、土の中から美しく飛昇する、洋の曲想ではないでしょうか。
今日この頃、宵待草のヒロイン長谷川カタさんを実在として、その面影に探りあてる夢が可能になるということです。
天空の旅路で、妖精の羽衣の実在を夢二が確かめるという物語を、夢二一代のハッピー・エンドとして聴きたいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます