バイブルプロジェクトの文字起こし レビ記
レビ記は聖書の3番目の書で、イスラエルが奴隷から解放され、神によってシナイ山のふもとに導かれ、契約を結ぶことになった出エジプトの出来事のすぐ後に収められています。
イスラエルの民はたちまち神に逆らい契約を破りました。
神はご自身の栄光をイスラエルのただ中にある幕屋に住まわせたかったのですが、イスラエルの罪が神との関係を隔てていました。
出エジプト記の最後ではイスラエルの代表であるモーセが、神の臨在がある幕屋には入れませんでした。
レビ記はその根本的な問題を思い起こさせるように、『主は幕屋からモーセを呼び』という言葉で始まります。
罪と自己中心にまみれたイスラエルは、どうすれば聖なる神と和解はできるのでしょうか。
それがレビ記のテーマです。
つまり神は寛大にも罪深く堕落した民が、きよい神と共に生きるための道を備えてくださるのです。
ここで少し神のきよさについて考えてみましょう。
これはレビ記を理解する上で極めて重要です。
きよいということばの意味は、分離されている、他に類を見ないということです。
聖書において神はすべてのものの創造者、すべての命の造り主という他に、類を見ない役割のゆえに他のすべてのものから分離されています。
そして神がきよいなら、神の周りの空間もきよいということになります。
それは神の善、命、純潔、義で満ちているからです。
ですから不正と罪にまみれたイスラエルが神の聖なる臨在の中に住むためには、彼らもきよく哭けらばなりません。
彼らの罪の問題には解決が必要です。
そこでレビ記の登場です。
この書の構造はシンメトリーになっています。
レビ記は神がイスラエルをご自分の聖なる臨在の中に住まわせるために備えた3つの方法を示しています。
最初と最後のセクションは、聖なる臨在の中でイスラエルが守るべき儀式の手順についてです。
その間は神と民との仲介者である祭司の役割について、そしてより中心はイスラエルのきよさについてです。
そしてこの書の中心に最も重要な儀式として、宥めの日が記されており、こうやってレビ記全体はひとつにまとまっています。
最後はモーセがイスラエルに対して、この契約に誠実であれと呼びかける短いセクションで閉じられています。
では初めから詳しく見て行きましょう。
まず最初のセクション(1-7章)にはイスラエルが命じられた5種類の捧げものについて書かれています。
そのうちの2つは感謝の捧げもので、神が与えてくださったものを記念して捧げるものです。
残りの3つは謝罪として捧げるもので、例えば一人のイスラエル人が神の造られた善き世界に、罪と死をもたらす罪を犯したことを告白するときに、動物の血を捧げるようなものです。
神は罪人を滅ぼすのではなく赦したいと願っています。
そこで動物が罪の贖いを象徴するために、動物が代わりに殺されるのです。
この儀式を行うことによってイスラエル人は、神の恵みだけではなくその義も、そして自分たちの罪が招く結果の恐ろしさも絶えず思い起こしていたのです。
ここと対になっているセクションでは、イスラエルが毎年行う7つの祭りに関する儀式があります。
一つ一つの祭りは、神がエジプトの奴隷だったイスラエルをいかに救い出し、荒野を通らせどのように約束の地に導いたかというストーリーの各部分を記念するためのものです。
これらを毎年祝うことでイスラエルは自分たちは何者で、神とはどんなお方なのかを思い出すことができるのです。
さて祭司についてのセクション(8-10章)を見ましょう。
イスラエルを代表して神の御前に出るようにと最初に任命されたのは、アロンとその息子たちです。
そしてこれとついになるセクション(21-22章)には、祭司になるための資格が記されています。
祭司は民を代表するのと同時に、民にとっては神を代表する存在なので、道徳的にまた儀式的に最大限の聖さが求められます。
初めのセクションを見ると、祭司の聖さがなぜそこまで大事なのかが分かります。
アロンの家系が祭司に任命された直後、アロンの二人の息子たちは軽々しく神の前に出て行き、律法を踏みにじったのです。
彼らはその場で滅ぼされました。
この出来事は神のきよさの前で生きることの素晴らしさと、それを軽んじることの恐ろしい危険の両方を教えています。
ですからイスラエルの祭司がきよくあること、またイスラエル全体がきよくあることは重要なのです。
次のより内側のセクションはそのことについて述べています。
11章から15章にかけてはイスラエル人に求められる儀式的なきよさ、18章から20章にかけては道徳的なきよさについて記されています。
ここではきよいものと汚れたものについて多く書かれています。
神は聖くまた分離された存在ですから、その御前に出て行くイスラエル人もきよくなければなりません。
それがきよい、汚れていない状態です。
汚れた状態の者は神の前に出ることはできず、その状態はきよくない、汚れていると呼ばれます。
例えば次のような場合その人は汚れているとみなされます。
精液などに触れた者。
皮膚病の者。
カビや菌に触れた者。
死体に触れた者。
イスラエル人はこれらを死、または命を失うことの象徴と考え、更に死に触れた者は汚れるとみなしていました。
死は神のきよさの対極にあります。
なぜなら神は命の源だからです。
ここで気を付けなければならないのは、汚れた状態になるのは罪でも悪でもないということです。
生活していれば起こり得ることであり、汚れた状態は一時的で、一週間か二週間で終わります。
本当に悪いことは死や汚れを象徴するものを身にまとったまま軽々しく神の前に出て行くことなのです。
これは赦されません。
最後に特定の動物を食べることによって汚れる場合があります。
このセクションには食に関する規定が書かれています。
衛生上の問題や文化的なタブーなど、それらの動物がなぜ汚れているかという仮説が今までたくさん立てられて来ましたがはっきりはわかりません。
ただし基本的なメッセージは明らかです。
これらは神の聖さは彼らの生活のすべてに及ぶということを、イスラエルが思い起こすための文化的なシンボルなのです。
これに類似するのは道徳的なきよさについて書かれたセクション(18-20章)です。
イスラエル人はカナン人とは違う生き方をするために召されました。
つまり貧しい者を見捨てずに気にかけ、性的にも高潔であり、自分たちの国で正義を追い求めるためなのです。
レビ記の真ん中(16-17章)にはイスラエルの祭りの一つである、宥めの日についての長い記述があります。
イスラエル人が一年を通して捧げる罪の犠牲の中で、どうしても生じるものを補うために年に一度行う儀式です。
大祭司が2頭のヤギを取り、そのうち1頭はきよめのための捧げもので人々の罪を購います。
もう1頭はアザゼルのヤギと呼ばれるもので、祭司がイスラエルの罪を告白し、その罪を象徴的にこのヤギに移して荒野に放つのです。
このことからも神がイスラエルの民と平和のうちに一緒に暮らすために、彼らの罪とその結果を取り除きたい強い思いがわかります。
この書は契約のすべてに対して誠実であれというモーセの呼びかけで閉じられます(26-27章)
モーセはイスラエルが律法に従うなら、平和と豊かさが与えられると述べ、もし不誠実で神の聖さを軽んじるなら彼らは滅び、やがて約束の地から追い出されるだろうと警告しています。
レビ記を聖書の大きな流れの中で捉えたいと思うなら、次の書である民数記の最初の文章を見ると良いでしょう。
そこに主は幕屋でモーセに告げられたとあります。
つまりモーセはイスラエルを代表して、神の御前に出ることができたのです。
レビ記に書かれていることが功を奏したわけです。
イスラエルは過ちを犯しましたが、神はそれを覆う道を備え罪深い民と平和のうちに住むことができるようにしてくださったのです。
これがレビ記です。
完