映画「沈黙-サイレンスー」・・・1月21日から全国ロードショーで公開。
マーティン・スコセッシ監督、ジェイ・コックス脚本。
(拝借
)
江戸初期のキリシタン弾圧下の長崎が舞台である。
(拝借
)
オイラ観てみたい映画ではあるが、きっと重いんだろうなぁ・・・。
そんなキリシタン弾圧に関連する場所が金沢にもある。
それはオイラにとって最近何かと関わりがある卯辰山である。
望湖台より金沢市街地を望む。天気予報では今日は晴れです
さぁて、今回はそれなりに資料も準備したし、朝マックも買ったし・・・
まずは、長崎キリシタン殉教者の碑へ
だいぶ雪は溶けたけど・・・、
やっぱ人が歩かない所には結構あるわ
今日、こんな所歩くのはオイラだけか・・・
見えたぞ
長崎キリシタン殉教者の碑である。
何か書いてある
反射して見にくいが「義のため 迫害される人は 幸いである」マテオ第5章十節より
マジっすか・・・。
「長崎キリシタン殉教者の碑・キリシタン弾圧で信仰を翻さなかった長崎の浦上村キリシタンのうち、政府による明治2年(1869)の金沢藩預けの五百余人は、明治6年(1873)に送還されるまで、卯辰山の花菖蒲園と湯座屋跡の牢舎に幽閉されていた。その間、百余人が折檻、飢餓や病魔で命を落とした。・昭和43年(1969)8月11日、カトリック金沢教会は、このことを後世に伝えるため、ここに碑を建立した。」
とある。
<ネットから>
鎖国は解いたものの、まだキリスト教禁令が解かれていなかった明治初頭、信仰を表明したために日本各地に配流された長崎の浦上村のキリシタンたち。彼らが流されて「豚小屋の豚のように獄屋につめこまれ」、囚人の生活をした場所が金沢郊外にあります。
卯辰山の望湖台のそば,湯座屋谷と呼ばれた谷間にある。1869(明治2)年長崎浦上より送られてきた約500人のキリスト教徒がこの地に収容され1873(明治6)年のキリシタン解禁までひどい迫害の生活を強いられたところである。静かな谷あいに立つ碑がキリシタンの悲惨な歴史を物語っている。
1870年(明治3年)、明治政府は長崎県浦上地方のキリシタン約3700人を逮捕。その中の516人は金沢藩に託された。
1873年、国際的な非難からキリシタン明治禁制を廃止し、流刑の人を故郷に帰したが、この間の死亡者104人、改宗したもの36人。
碑の下にプレート地図が貼ってあり、
「卯辰山の浦上キリシタン流配史跡案内地図」とある。
ならば全部行こう
(まじかオイラ・・・
)
1-織屋跡
2-養生所跡
3-長崎キリシタン殉教者碑
4-湯座屋跡
5-奥のトキエ
6-埋葬骨群発見現場
の6か所だ。
さて、ここ長崎キリシタン殉教者碑は見たし、
花菖蒲園にあった、織屋跡へ
着いた。
ちょうど山の影になっているので足元の氷が溶けておらずツルツルで危なかった。
ここに織屋と呼ばれる施設があったんだ。
<解説
>
加賀藩14代藩主前田慶寧が1867(慶応3)年に卯辰山を開拓したときにに建てた織物工場があった場所。1869(明治2)年の藩籍奉還により開拓は中止となり空き家となっていたところに、浦上キリシタンたちは収容されました。
続いて、養生所跡へ
あの地図によればここら辺だが・・・、
すぐ横が崖なんだがなぁ・・・
家に帰って、ネットで調べると、ちゃんと案内板があることがわかった(くやし
)
もう少し下だったか・・・
(拝借
)
<解説
>
大聖寺藩(現在の加賀市)に流された浦上キリシタンが、1872(明治5)年になって移されて収容された場所。もともとは加賀藩の病院でしたが、移転して当時は空き家になっていました。
外国の非難を受けた政府はキリシタンたちの待遇を改善し、大聖寺にいた信徒を金沢の卯辰山にあった養生所跡に移動させました。
続いては、湯座屋跡だ。
車から降りて、目的地へ歩いて向う
陽があたらない場所はやはり雪が残っています。ザクっザクっ
大きな石が数個転がっている。
このあたりにあった。
<解説
>
浦上キリシタンの金沢へ配流は二回に分けて行われ、戸主たち114名が出発した4日後、第二陣としてその家族410名が船に乗せられ玄界灘を越え、七尾で上陸、厳冬の中一週間歩いて金沢に到着しました。信徒達は人として扱われず、家畜のように「一匹、二匹…」と数えられていました。
湯坐屋は元湯治場で、二階建の建物には47部屋あったので、到着した410名もの大人数を一ヶ所で収容できましたが、すでに湯も枯れ、さびれていました。現在は雑草のはびこる石置き場となっています。
次は、奥のトキエにレッツGO!
(なんちゅう名前)
軽スポーツ広場の駐車場に車を停めて
その横の道を歩く
地図によると、ここがザックリしてるんだよなぁ、
雪が大変だけど、夏よりマシかも、
クマも冬眠してるし、スズメバチもいないからね、
おそらく夏だったら草ボ-ボ-で歩けんと思うわ。
それにしても・・・
どこまで行っても、目的地っぽい場所が現れない。
戻って、歩き始めてすぐのここが候補地でいいわ
<解説
>
金沢に流された500名以上の浦上キリシタンのうち、特に信仰が堅固で説諭に応じない者だけを入れた牢獄。信仰の導きをする中心人物たちは、他の信徒と隔離され過酷な拷問を受けました。
卯辰山の東長江地区の谷底にありましたが、現在は木が生い茂り、つたがからまって見る影もありません。 奥のトキエの「トキエ」とは、徒刑(場)がなまったものだといわれています。
16間ほどのスペースに二重柵が巡らされ、その中に4間のわらぶきの牢屋が建てられていました。
12月の雪の中、今まで着ていた着衣を剥ぎ取られ、薄い袷(あわせ)一つで戸外に置かれる、寒ざらしという仕打ちを受けました。キリシタンたちはただ祈りに集中し、艱難辛苦を忍びました。
こんな怖い場所だったのか
一番ヘビーな場所だった。
さて、最後に行くのは、
埋葬骨群発見現場だ。
その場所、山側環状線の卯辰山トンネル東長江口の海側斜面である。
ここも雪が残っているので、車で進入できません。
ずいぶん歩いたよ。
ここらの斜面から出たんだろうね。
以前、御所町編でここを登ったけど⇒
#118
その時は骨の事なんて全然意識していなかったよ。
<解説
>
明治の世になっていたにも関わらずキリスト教禁令が解かれていなかったため、全国に流された長崎の浦上村のキリシタン。配流先のひとつである金沢には、最も多い人数の500名以上の信徒が連れられてきました。劣悪な環境と食糧事情の中、厳しい取調べが行われたので、金沢での死亡者は全配流先20藩の中で最多となりました。
1998年卯辰トンネル建設の際に、彼らの遺骨であろうと推定される骨が見つかりました。墓穴13ヶ所から土葬された人骨40体が出土し、それらは現在国立科学博物館に保存されています。
たしかに奥のトキエ(徒刑場)より近く、これらの骨は当時のキリシタンであるとほぼ確定されているとのことです。
<解説>では、キリシタンのあしあとを求めて各地を旅している「天上の青」というサイトを中心に参照させていただきました。
キリシタンの迫害か・・・、
遠い昔の、遠い場所(長崎)の話だと思っていたけど、明治の時代に、こんな身近な場所でキリシタン迫害があったかと思うと、
(拝借
)
なんとなくしんみりとくる・・・。
加賀藩前田家はキリシタン大名である高山右近をマニラに追放されるまでの26年間、客将として迎えており、そもそもキリスト教には寛容な土地だったはずです。
それが幕末から明治と時代の流れと中央政府の命令には従わざるを得ない事情もあったのでしょう。
悲しい歴史が、この卯辰山の裏側にあったのですね。
卯辰山はいろいろ深いであります。
沈黙-サイレンス-は見に行こうかな・・・。
2017年2月5日に投稿したPARTⅡもどうぞ⇒
#178
【ヒゲ親父】
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