てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

旧北国街道をゆく《県外》越中愛本橋編

2020年12月12日 13時15分06秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
越中は黒部川の中流、愛本橋へ行ってきました。

その少し手前にある黒部市歴史民俗資料館へ


入り口前にはこういうものも、

明治以降に架けられた鉄骨製の一部ですね。

ではいよいよ入ります。


江戸時代の愛本橋は、大変珍しい橋で、


日本三大奇矯と呼ばれていました。


ふむふむ

<ウィキより>
旧橋(刎橋)かつては全長61.42メートル 、幅3.62 mにも及ぶ刎橋であったため、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋とともに日本三奇橋の1つといわれていた。
河道が移動する暴れ川であった黒部川下流部を避けて敷かれた旧北国街道の上街道に架かる橋で、加賀藩5代藩主・前田綱紀が架橋を命じたとされる。参勤路の難所である黒部四十八ヶ瀬を避けるために山沿いに新道を開いて黒部川に橋を渡して諸人の往来を容易にしようとしたが、家臣たちは領地防衛の要害地に橋を架けることに反対、綱紀ただひとりは「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず。」と主張してこれを断行したといわれてる。
洪水時には大量の土石と水が集中し橋脚は流されてしまうために川の両岸から大木を突き出す構造の刎橋であった。

味方の本、щ(゚V゚щ) きゃきゃキャモ~ン!
三日市から泊まで間の二つのルートはこういう感じ。
一つは黒部川四十八瀬を渡る下往来(下街道)、もう一つは上流の愛本橋を通る上往来(上街道)です。


愛本橋は、

現在の橋より少し上流にありました。



なんじゃこりゃ


対岸に渡り謎の施設付近で、


洪水があったんだ。


愛本刎橋の痕跡を見つけたかったがわからなかった。


現在の愛本橋も美しいですね。


河原にやってきて黒部川を見ます。

黒部川は急流で有名ですよね。

はい今回はここまで。

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旧北国街道をゆく《県外》越前今庄編

2020年12月12日 12時00分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
越前は今庄宿。

旧北国街道の重要な宿場町です。

さて、こ~う~れ~いの味方の本、
щ(゚V゚щ) くるくるキャモ~ン!


味方の本によると、

今庄は、京方面への玄関口として繁栄していた宿場町で本陣や脇本陣も置かれていたとあります。

今日はここから、


地図ではここですね。


おっクランクだね。


当然、防衛上の目的があります。


古い町並みが残っていますなぁ~。


いいね。


このあたり左右になにやらありますぞ


まずは右側ですが、


明治天皇がご宿泊された場所ですね。

行在所(あんざいしょ)となると御小休所と違って一時的な宮殿という意味合いになるそうです。

そしてこの場所は加賀本陣跡でもありました。


反対の左側は、


脇本陣跡です。

加賀藩は大藩だったので、本陣だけでは賄いきれませんので、予備的な脇本陣が存在しました。

しばらく進むと右手に、新羅神社


朝鮮関係ですね。


そろそろ食事をと、


旧街道沿いにあった蕎麦屋さんに入りました。

越前おろしそばです。

ここには大変興味深い本置いてあって、


なんと「北国街道をゆく」というではありませんか


蕎麦をすすりながら、短時間集中して読み込みました。


昼食後しばらく歩くと、


おっ


昭和の看板、懐かしや~。

蕎麦食べたばかりだけど、ボンカレー食べたくなったよ。




いいねぇ


登ってみようかな、


えっほ、えっほ


歩いてきた旧街道を見下ろす。


しばらくすると、左右の分かれ道が、


文政の道しるべ、とな


右は山中峠を越えて敦賀へ、左は旧北国街道で栃ノ木峠に行きます。


ここですね。

はい今回はここまで。

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家でゆっくりとブログでも・・・、

2020年12月12日 08時11分31秒 | 【ヒゲ親父】出来事
土曜日はカミさんもパートだし、
天気も雨なので、今日は家でおとなしく過ごします。

新緑の頃に「旧北国街道をゆく」ネタで撮ってきた画像が残っているので、
越前今庄偏と越中愛本橋編、この二つ作ってアップしようかな。
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