79年前、日本はポツダム宣言を受諾し戦争に負けたと連合国に通告した。もちろん法的には9月2日の文書によって正式に降伏し戦闘行為が終結した。
一般的には、降伏を天皇が全国民に知らせた8月15日が敗戦の日とされているが・・・。その8月にはマスコミなどが戦争に関する様々な企画・映像を流す、普段の罪滅ぼしでもあるかのように。
あの戦争で、日本人は310万人以上が死んだ。戦争を始めた政府の決断によって、或いは~然るべき指導者たちに先導され・教育された結果かもしれないが~国民の熱狂によって、国民は「殺された」。そして、交戦国の兵士ではない、中国1000万人、フィリピン100万人、ベトナム200万人(サンフランシスコ講和条約による)などの住民を「殺した」
戦争には国家による「戦争をする理由」が必ずある。共通しているのは「自衛」であろうか。どの国も「侵略して屈服させるために」戦争をするとは言わない。様々な圧力や圧迫によって国家・人民が苦しめられている、このままでは相手に屈服することになる、だから戦争するほかない・・・侵略を防ぐために先制攻撃をする・・・と。
純粋に「自衛のための戦争」などありはしない。
戦後「東京裁判」なるものが開かれ戦争責任が戦勝国だけによって追及された。国家利害の対立の結果である「戦争」結果的に「勝った」側の利益は極大化し、「負けた」側の利益は消え果てる。それだけでなく、負けた側の利益追求は「悪事」とされる。しかし、買った側も所詮は利益を追求しただけであり「悪事」の質に差はない。だから、勝者による戦争裁判は茶番劇になる。
だが、一番大切なのは、国民自身による戦争の「総括」だと思う。我々の行為や思想の何がこうした犯罪的な行為をもたらしたのか、だれがどの様に関与し国民はどうして戦争を止められなかったのか、など。
父母たちからは「あの時はそんなことは考えもしなかった、教えられたことは正しいと思っていた、あの時はどうにもならなかった・・・」などと聞いたことがある。自分たちはまるで無垢な赤子であって、教える人たちの言う通りにしか考えられなかったのだ・・・と。
この「自らは無垢な赤子のように無知であった。」という考えが日本人の「客観的・科学的・論理的」に考える能力の進化を阻害し、日本そのものがまるで「被害者」であったかのような立ち位置にしてしまっている。それこそがまさに「被虐史観」を言う人々の「幼児性」である。
日本人に欠けているもの・・・自分の行ったことを客観的に把握せず「無かったこと」にしようとする「幼児性」。だから、都合の悪い文書などを平気で改竄し廃棄してしまう(森友問題でもそうだったが・・・)。
都合が悪くとも、事実は事実として受け止め、客観的に論理的に科学的に考えて行かねばならない。そのためには、その様に「自ら考える」力を幼少期から育んで行かねばならない、と思う次第である。