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佐竹館長「ヤル気の源泉」

2011年02月03日 20時58分36秒 | 宗教・信仰

佐竹館長「ヤル気の源泉」

 
 
転載


2011.01.27
 湯布院正心館七の日感謝奉納式典
佐竹館長講話
 
☆★やる気の源泉☆★

皆様、こんにちは。ようこそ、湯布院正心館においで頂きました。本日は1月度の最後の七の日でございます。この尊い日を、ここ湯布院正心館にて仏弟子相集うことができましたことを、主に心より感謝申し上げます。

本年2011年度の活動は、『救世の法』そして、『教育の法』ということで、大きな救世とともに社会変革ということが私たちに要請されておりますけれども、同時に魔との戦いということも、激しさを極めてくるという年でございます。そこで、この救世運動をやりきっていく上におきまして、やはり必要なのはやる気であると。やる気を維持することができるかということではないかと思います。

やる気と申しますのは、当然積極的な思いでございますし、発展の力の源泉にあるものである、このように思います。如何にして、このやる気というものを自家発電していくことができるかということが、今問われているのではないかと思います。当然また、このやる気というものは、四正道、愛・知・反省・発展に置き直しますと、すべてに通じるものであると思いますけれども、発展の原理を持ち上げているパワーであるとこのように思います。

それでは、このやる気というものは一体どういう感じかなと考えますと、私たちの生命エネルギーが非常に活性化している状態のことではないか。非常に元気がいいという状況ですね。ですから、この生命エネルギーが活性化しているということを少し考えてみる必要がある。つまり、生命とは一体何なんだということにも関わって参ります。この生命とは、正心法語にも

「大宇宙に 光あり
光は 仏の 生命なり
生命によりて 人は生き
生命によりて 歴史あり
生命は永遠に 普遍なり」
とこのように書かれておりますけれども、
 
この生命とは一体何なんだというと、この地上世界には諸行無常といいまして、生々流転の法則、あらゆるものは変化して流転しているという法則がある。しかし、その奥に変化しないものがあるんだと。これを主は永遠に変化しない何かということで、それを実在ともいい、或いは理念ともいい、イデアともいい、或いは意識ともいい、霊ともいい、魂ともいっていると。それを生命といっているんだと。

では、生命とは一体何かというと、個性ある意識体のことでもありますし、個性ある知性のことをいうと。即ち、心である。生命即ち心。心と生命というのは同じことをいっているのだと。従いまして、生命エネルギーが活性化しているということは、心が活性化している状態のことをいうということです。つまり、やる気というのは、心が元気で活性化して積極的になっている、そういった状態のことをいうのだと思います。これを維持しようじゃないかということでございます。

ということは、やる気というものを考えるにあたって、やはり、心とは一体何なのかということを分析しなくてはいけないと思います。そこで、私たちは主より心も一つポコンとあるんじゃないんだと。この人体という形を持った魂があるわけで、その中に心の部位があると、ちょっと場所が違うんだという教えを頂いておりますね。で、私たちはケリューケイオンの杖というのを知っております。このケリューケイオンの杖はですね、実際に蛇が螺旋(らせん)状に、こう二重螺旋で流れているんです。これは蛇であっても何であってもいいんですけれども、順番に二重螺旋が交差しております。これは別の言い方をしますと、人体の象徴でもあるんですね。ですから、世界保険機構なんかのマークもケリューケイオンの杖になっています。
 
当然、これはヘルメス神のヒーリングパワーを象徴しているわけですけれども、これは、DNAの二重螺旋のようになっているんですが、横から見ると交差する部分があるわけです。下から順番に見ますと、これはチャクラの位置とも言われていますね。
 
一番下がクンダリーニともいいますけれども、第一チャクラ、次が二チャクラ、三チャクラ、四チャクラ、五チャクラ、六チャクラ、一番上がクラウンチャクラといって七チャクラになっているわけですね。これを、心の部位からいいますと、第一チャクラ、下から二番目丹田あたりの第二チャクラ。丹田あたりに悟性のチャクラがある。第四チャクラあたりの胸を中心に感性・意志、或いは本能といったチャクラがある。そして、第六チャクラあたり、眉間を中心としたところに知性・理性のチャクラがあるとこのようにお教えを頂いております。このような部位があるということです。

しかも、私たちはそれに対して四正道を頂いておりますので、この四正道もそれぞれの部位があります。まず、心の中心はどこにあるかというと胸にあります。ですから、やる気が出るということが必要な場合は、やる気の出ない状況を出す必要性がある。やる気の出ない状況というのは何かというと、苦難困難が目の前に立ちはだかっている時ですよ。めげるという感じですね。このめげるという時に、やる気を与えないといけないわけです。しかし、物事はまず最初に愛で感じます。胸で感じるんですよ、あらゆるものは。胸で感じるんです。直感的にこれは嫌だなとか、嬉しいなとか、困ったなとか、恐ろしいなとか、不安だなというのは、まず胸で感じます。胸、感性ですね。この心でまず捉えるということですけれども、感性的にまず捉えているわけです。ここはまた、胸を中心とした愛のチャクラでもあるわけです。
 
愛のチャクラで捉える時にどうするかというと、まず、心が落ち着いていなければいけないという状況があります。というのは、ストレートに捉えますと、自分にとって危機、或いは苦難困難ということに対して、当然マイナスに反応しますから。本来ならば天上界にいた時は、心は天上界的に創られていたと思うんですね。
ですから、天上界にいた時には、この感性は喜びを中心に反応しているはずなんです。喜び、感謝。しかし、地上に出るとその逆のものが山のようにありますから、やはりマイナスのものにはマイナスとして働く。しかしながら、我々は愛というものを教えられている以上、愛というのは自他一体の悟りである。あらゆるものは仏によって創られている。その苦難と見えしものも、ある面、自分の問題として捉える。要は受け入れるということです。ですから、胸の感性というのは、怖いからといって排除するのではなくて、それをまず受け入れようではないかというところに、まず愛というものがある。受け入れる。じゃあ、受け入れた。そうすると次どうするか。知に入りますね。

知というのは、頭の部位に入ります。理性・知性は側頭葉・後頭葉、この辺の領野にあると言われていますね。ここで知性は何をするかというと、受け入れたものを理解すべきであると。理解しようとする、一体それは何なんだ。縁起でいうと、一体何が原因・結果の法則として起きていることなんだとまず理解しようとしますね。これも愛の変化ですね。

理解したら、理解したものを次にどこへ持っていくかというと、反省に持っていきます。ですから、これは丹田に落としていくということになるわけです。静かに受け入れて理解したものを丹田に落としていくと、丹田の世界というのは霊天上界に繋がっているんです。霊天上界に繋がっていて、この丹田から胸を通じて頭脳まで一直線に繋がっている部分があって、ケリューケイオンの杖のように一直線になっているんです。ここに落とす。ここまで通常落ちないんですよ。落ちなくて、もう感性的なもので拒絶反応起こしますと、いやだという拒絶反応起こした状態で頭脳動かしますとね、あらゆるものを拒絶し出しますよ。そうではなくて、受け入れて理解して下に下ろす。そこまで覚悟したものを丹田に落としますと、これは我々の魂の兄弟・指導霊・天上界の世界に、この問題を落とすということなんです。それは客観的に見ても非常に苦難困難であって、非常に矛盾する問題もあるし、どう考えても多勢に無勢であって、非常に不利な状況が客観的に確認できると。知性的にも理性的にもそう
であるというものを、ここに落としたらどうなるかということなんです。
 
そこは霊界の世界なんです。霊界の世界からするとですね、その冷静に考えて駄目だというものに対して、頑張れとか、やれとか、貫けとか、一歩も退くなというようなメッセージが湧いてくるんです。頑張れ、くじけるな、戦え、こういった指令が降りてくるんです。この辺がやる気の源泉です。やる気というのは天上界から降りて来るもんなんですね。地上的にやる気が起きて来るもんじゃない。本来これは今の救世運動もそうです。
多勢に無勢、いろんな方から100分の1しかできてないとか、パワーがないとか言われてて、はいそうですかでは済まないと言っているわけです。そんなことあるわけないだろうと、応援している、頑張れ、こうくるわけです。それがグググーッと上がってくるわけです。そうすると、よくヨガなんかで言っている、クンダリーニからエネルギーが上がってくる状況って、ここから始まるわけです。

ですから、ヨガで解説されていないところは、愛というものがあって、知があって、そして、上がってくるんですが、これを吹っ飛ばしてですね、第一チャクラのクンダリーニからエネルギーが上がってくるっていうものではない。ここが分かっていないわけです。ここで聖なる正しさに基づいたエネルギーというものが、上がってくるはずなんです。善悪というものが、その前にあるということです。仏の善悪があって、その主の善悪に基づいてパワーに火がつくと上がってくる。

上がってくると愛の火が胸あたりにまた戻ってくるわけですね。ここで意志が形成されますね。やり抜くんだという強い意志が形成される。やり抜くんだという強い意志が形成されると、また頭に上がってくるわけです。

そうすると、前頭葉が機能し出すわけです。眉間の部分ですね。これがクリエイティブなんですね。クリエイティブというのは、今までにないもの、一見駄目だと言われるもの、不可能だと言われるもの、明らかに矛盾しているものに対して、新たな創造性によって道を切り拓こうとする力ですね。これによって、愛・知・反省・発展というものが一つ完成していくということではないかと思います。ここに、やる気というものが起きてくるということになろうかと思います。

そこで、このやる気の部分を発揮しようとすると、そのようなプロセスがあるとしても、やはり必要なのは日常的な信仰生活。或いは、自分自身は主を如何に信じているかという信仰がないと、ある時にはやる気が出るが、ある時にはやる気が出ないということになります。信仰心が満たされている時にはやる気が出ますけれども、信仰から離れている時にはやる気が出ないということになりますので、常にやる気が起きるという状況ではない。ですから、常にやる気が満たされているような状況の前提条件は、まず主を信じているということです。その主を信じるということに基づいて、まず心が平静である。主の御名のもとにおいては、あらゆるものはすべて主によって生かされている、自他は一体であるといった思想を持っていなければならないとこのように思いますね。
 
それによって、受け入れることによって、また不動な信仰心によって、それを逆転させることができる。本来ならばやる気がなくてくじけるようなことが、逆に火がついてくるという状況が起きてくるのではないかと思います。
それによって強く形成された意志が、途中でくじけることなく意志貫徹することによって実現していく、こういうことではないかと思います。
何れに致しましても、やる気の源泉というのは、正しいパワー・本来の霊天上界のパワーを得るならば、やはり信仰心の維持が最も大切で、これなくしてやる気なんか起きるわけがないと。起きるとすれば、それは単なる欲ではないのか。欲に駆られているものを、やる気が出ると言っているだけではないか。そのような欲などは、ちょっと満たされればすぐなくなってしまいますから、継続することができないということではないかと思います。

今一度、この困難な時期に際して、これはまた逆にいいますと、やる気の源泉であると。このアゲインスト、逆風が実はヨットを動かす源泉であると、このように理解を致しまして、共に頑張って参りたいと思います。ありがとうございました。

以上

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