湯
布院正心館・佐竹館長講話
感謝をこめて転記いたします。
2011.02.07
2011.02.07
湯布院正心館七の日感謝奉納式典
佐竹館長講話
偉人の愛
佐竹館長講話
偉人の愛
皆様、こんにちは。
ようこそ、湯布院正心館においで頂きました。
ようこそ、湯布院正心館においで頂きました。
本日は二月度の七の日でございます。この尊い日を、
ここ湯布院正心館にて相集うことができましたことを、
主に心より感謝申し上げます。
今回は偉人の愛ということにつきまして、ご一緒に
今回は偉人の愛ということにつきまして、ご一緒に
考えさせて頂ければとこのように考えております。
それは昨年来、仏宝護持研修、今年に入りまして
それは昨年来、仏宝護持研修、今年に入りまして
秘儀公開特別研修を頂きまして、この中で私たちは
今、現在進行形で救世運動に参加しながら多くの学び
を頂いておりますけれども、ここから何を学ぶべきなのか
ということを、少し整理しなければいけないのではないか
と考えております。
当然研修を受けましたので、そこでのコメントがございましたが、
当然研修を受けましたので、そこでのコメントがございましたが、
もっと大きな広い見方があるのではないかとこのようにも考えております。
一つは、ここで惹起(じゃっき)されている問題というのは、
一つは、ここで惹起(じゃっき)されている問題というのは、
愛の中でも家庭ユートピア、これは一体どういうものなのか
ということが、一つ逆照射されているような感じが致します。
それに対しまして、救世主の愛、偉人の愛といわれる愛とは
それに対しまして、救世主の愛、偉人の愛といわれる愛とは
どのようなもなのかということが、今明確になろうとしている
のではないかと思います。
偉人の愛とは一体何か。それは存在の愛といわれるもの
偉人の愛とは一体何か。それは存在の愛といわれるもの
でございます。この存在の愛というものと、家庭ユートピアと
いうものは、一体どういう関係にあるのか、こういったことが
今問われているのではないかと。これがまた、立宗25周年
という節目の年に、もう一度私たち信者にとって問われている
ことではないかと思います。
週刊誌が当会を批判するというようなことが起きる度に、
週刊誌が当会を批判するというようなことが起きる度に、
信仰研修において、それに対する解答として、そのための
機会を頂いているということだと思いますけれども、ご多分に
漏れず、そのような週刊誌をお読みになって、ご質問される
方もおられるということでございます。
まだ日の浅い方ならばいざ知らず、かなりの年数をこの
まだ日の浅い方ならばいざ知らず、かなりの年数をこの
信仰の道に入りながらも、分からないという方もおられる
わけでございます。
そういった方に対して、私はどのように申し上げるかというと、
そういった方に対して、私はどのように申し上げるかというと、
某週刊誌を読んだという方に、このようにまず問いかけて
おります。その某週刊誌発行会社は、世界人類の幸福を
願っている会社なのか。そして、すべての方々を幸福に
していこうという高い志を持っている会社か。
また、その会社の発行物である週刊誌を読めば、みんなが
また、その会社の発行物である週刊誌を読めば、みんなが
幸福になり、病気も治り、経済が繁栄し、そして、霊障が
治るのかと。そのような会社なのかどうなのかと、まず、
これを聞くわけでございます。
一体どういう会社なのか。金儲け主義の嘘つき放題の
一体どういう会社なのか。金儲け主義の嘘つき放題の
会社なのか、真実のみを伝えようとしている会社なのか、
どういう会社なのかと。
もし、それが真実を伝えようとしている会社であるならば、
もし、それが真実を伝えようとしている会社であるならば、
あなたは毎日その週刊誌を声を上げて読むべきである。
夜も読みなさい、朝も読めと。それを信じて生きよと。
それだけのことでございます。
しかし、これが嘘つきなものであるならば、何故その嘘を
しかし、これが嘘つきなものであるならば、何故その嘘を
書いているものと、真実を語っておられる方を比較しよう
とするのか。
それが根本的におかしいということでございます。
それが根本的におかしいということでございます。
一体何を信じて生きているのか。それをもう一度問うべきである。
もう一度自分の信仰とは何なのか、白紙の心で問うべきで
あるということでございます。
そうすると、主は家庭ユートピアを説いておられたではないか
そうすると、主は家庭ユートピアを説いておられたではないか
とこのように言ってくるわけですね。
では、家庭ユートピアとは一体何なのかと。愛にも段階が
では、家庭ユートピアとは一体何なのかと。愛にも段階が
あるが如く、ユートピアにも段階があるはずである。
一つは家庭ユートピアというものでございます。更にそれが
一つは家庭ユートピアというものでございます。更にそれが
広がっていくことによって、社会のユートピアというのができる。
それが更に国中に広がって、国家のユートピアというのができる。
それが全世界にまで広がって、地球ユートピアの実現というものが
それが全世界にまで広がって、地球ユートピアの実現というものが
起きてくるのではないか。
では、家庭ユートピアとは一体何なのかというと、それは
では、家庭ユートピアとは一体何なのかというと、それは
人間が転生してくる時に、まず一番最初に出会うのが家庭であると。
家庭の中にも意見の相違、或いは、幸福な家庭もあれば
家庭の中にも意見の相違、或いは、幸福な家庭もあれば
不幸な家庭もある。しかし、ここを一つの基準点として、
人生勉強をしているというのが人間ではないのか。
では、家庭とは一体何なのかというと、まず初段階である。
では、家庭とは一体何なのかというと、まず初段階である。
この地球という三次元世界も学校と言われておりますけれども、
小学校に当たる
部分ではないのか。親があって初めて子供が生まれますから、
部分ではないのか。親があって初めて子供が生まれますから、
一種義務教育のような部分、これを家庭ユートピアというのではないのか。
それを卒業すると、中学校・高校・大学と上がっていくということではないか。
では、この家庭ユートピアというものは、まず社会のユートピアに
それを卒業すると、中学校・高校・大学と上がっていくということではないか。
では、この家庭ユートピアというものは、まず社会のユートピアに
貢献すべきものであって、社会のユートピアというのは、国家の
ユートピアに貢献すべきものである。
また、国家のユートピアというのは、全世界の人類に対して
また、国家のユートピアというのは、全世界の人類に対して
貢献すべきものである。という物事の大小というのがあるのではないか。
今回この家庭ユートピアこそ、ユートピアの終着地点のような
今回この家庭ユートピアこそ、ユートピアの終着地点のような
言い方をしているが、これは出発地点であって、最終地点ではない。
特に『永遠の法』第四章第7節におきましては、
特に『永遠の法』第四章第7節におきましては、
「偉人の生涯」という節がございますけれども、
この中にはっきりと書かれている。
家庭ユートピアというのは、偉大なる主の愛を垣間見る
家庭ユートピアというのは、偉大なる主の愛を垣間見る
ためにあるのである。そして、偉人の愛というものは、
かつての偉人・過去の偉人においては、このような家庭
というものを一顧だにしない生き方をされてきた例が多いと。
何故ならば、偉大なる仏を愛するということと、そして、
何故ならば、偉大なる仏を愛するということと、そして、
多くの方々の愛に生きるという目的のためであるからだ
ということです。より公共性の高いものに自分が奉仕しよう
としていくならば、それは小さな問題になってくるからだということです。
しかし、世界中の家庭が乱れてもよいというわけではない。
それは、より高次な愛のために奉仕しなければならないのだ
それは、より高次な愛のために奉仕しなければならないのだ
という考え方が、まずベースにあって然るべきであるということではないかと思います。
これは、救世運動に参加されるご家庭においては、
これは、救世運動に参加されるご家庭においては、
よく起きる問題でございます。
そして、それらの信仰者におかれましても、どちらが幹で、
そして、それらの信仰者におかれましても、どちらが幹で、
どちらが枝かくらい、瞬間的に分かるはずである。
何故、これが瞬間的に分からなかったのかというと、
何故、これが瞬間的に分からなかったのかというと、
魔のかどわかしというものが、この中に入っている、或いは、
その本人自身の思想の中にもあったのではないかということです。
しかし、今私たちが目にしている偉大なる主の愛というものは、
こういった存在の愛をはるかに越えた始源の愛。
この宇宙すべてに光を届ける愛で、それは太陽の如き愛であって、
この宇宙すべてに光を届ける愛で、それは太陽の如き愛であって、
すべてを照らしているご存在である。
そのすべてを照らしているご存在を、私だけ照らせというような
そのすべてを照らしているご存在を、私だけ照らせというような
ことが起きるのかと。起きようはずがないではないかと。
ですから、今、これらの一件も縁起の法、自然の成り行きの中に
ですから、今、これらの一件も縁起の法、自然の成り行きの中に
おかれているということではないかと思います。
ここに初歩的な魔の試みと言いますか、信仰心に対する試みが
ここに初歩的な魔の試みと言いますか、信仰心に対する試みが
起きているということですね。
こ
こ
んなものは、一笑に付すべきものである。ただですね、
百戦錬磨の方はそうであるかも分かりませんが、
最近入信した方だとか、そういった方がこの週刊誌読むと、
やっぱり心が毒されるというような部分がございますね。
しかしながら、今主におかれましても、粛々とこの救世運動を
しかしながら、今主におかれましても、粛々とこの救世運動を
進めておられますし、新たなリーディングもどんどん行って
おられます。そしてまた、『己心の魔に打ち克つためには』
というご法話の中で、このように言われています。
このような批判が生じるということは、ある意味で成功の裏付け
このような批判が生じるということは、ある意味で成功の裏付け
であるという考え方もあるのだと。ある意味で半分は称賛である。
幸福の科学というこのサンガに対する、称賛の意味さえ
込められているのだ。単に非難されていると思ったら間違いであると。
一顧だにされないような組織であるならば、
話題にもならないということでございます。
反面そのようなものがあると。ということは、今年は鯉の
反面そのようなものがあると。ということは、今年は鯉の
滝登りでもあるとこのように言われておりますけれども、
今、胸突き八丁にやって来ていると。
しかし、ここを登りきったならば、また次の新たな次元が
しかし、ここを登りきったならば、また次の新たな次元が
現れてくると。この直前であると。
このようにも私たちは励まして頂いているわけですけれども、
このようにも私たちは励まして頂いているわけですけれども、
これは真実であろうと私は思っています。
この直前のところで、私たちはキョロキョロ、ウロウロする
この直前のところで、私たちはキョロキョロ、ウロウロする
ことなく、ただひたすら主を信じて突き抜けていくというのが、
今私たちに与えられている一つの試しでもあり、
試験でもあるとこのように思います。
今こそ、この雲海を突き抜ける一つの瞬間でもあろうかと思います。
今こそ、この雲海を突き抜ける一つの瞬間でもあろうかと思います。
主に対する絶対の信仰というものを確立致しまして、
ともに主の希望実現、全人類救済、これに向かって、
ただひたすら進んで参りたいと思います。
ありがとうございました。
以上
以上