宗教法人『幸福の科学』の林洋甫さんとの公開対談について
佐々木俊尚氏 作家・ジャーナリスト
転載 http://www.huffingtonpost.jp/toshinao-sasaki/post_6214_b_4300036.html?utm_hp_ref=mostpopular
2013年11月19日
宗教法人『幸福の科学』の林洋甫さんと公開対談することになった。
イベントの詳細はこちらにある。
http://kokucheese.com/event/index/126854/
また当日はニコニコ動画でも生中継される。
http://live.nicovideo.jp/watch/lv159560840
このトークイベントについては議論が巻き起こっており、批判される方も
少なからずいた。私がTwitter上で行った議論は、『佐々木俊尚さんの
ツイートまとめ/社会の常識が根底からひっくり返り、すべてを
再定義していかなければいけない今の時代だからこそ考える、
宗教の可能性についての議論』にもまとめられているので参照して
いただければと思う。
宗教が専門分野ではない私が『幸福の科学』との対談に臨もうと思った
きっかけは、教団のIT伝道局長である林さんから長文のメールをもらった
ことだった。林さんは私のメルマガの読者で、以前にあるセミナーに
聴講に来ていただいたこともある。メールの内容はご本人の承諾を得て、
私のメルマガで、宗教とテクノロジの交差点についての私の論考とともに
全文掲載させていただいた。以下はその転載である
(メルマガの元記事からは若干修正してある)。
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宗教団体「幸福の科学」の方から、メールをいただきました。
これが非常に興味深い内容だったので、ご本人の許可をいただいて
皆さんに紹介し、今回はこれについて論考してみたいと思います。
。☆:・。*☆:・。*
この前のメルマガでありました、「オウンドSNS」という考え方ですが、
実は今、幸福の科学グループでも、このオウンドSNS的なものを7月
オープンさせるべく開発中です。
具体的にはSNSとQAサイトを融合させたもので、選挙に向けて、
若い世代の有権者の声をひろい、SNSに入った会員メンバーが一般公開
されているQA上で一般向けに対して真理を回答していくというものです。
宗教がなぜ政治に出るのかや、何を目指しているのか、今の参院選の争点
は何なのかや、その他個人的な質問にも答えていきます。1番良い回答を
ベストアンサーに選んでもらい、その回答者を有権者がフォローしていく
仕組みです。FacebookやTwitterとの連動性も加味しています。
更に興味を持った人は、この回答者が所属しているSNS内のプロジェクト
に入ってくるという動線を設計しています。
QA機能は、OKWave的なものに近いですが、SNSはどちらかというと
リンクトイン的なものやCatchafireというプロジェクト呼びかけサイト
の要素をもったものに近いかもしれません。
このSNS&QAサイトは参院選を意識しているので、QAの部分が中心になり、
まだ多元化された次元の概念がないですが、参院選以降、リアルの精舎修行
と連動させていこうと考えています。
精舎精舎は仏教理論における阿羅漢向→阿羅漢果→修行菩薩の段階的な
システムがあり、30年かけて修行に取り組むもので、全国20数カ所にある
精舎での研修や祈願をかさねて受け、執着を落としていって本来の自己
や使命を発見し、真なる智慧を得ていくものです。
そしてその時々の気づきや悟りをWeb上で口コミとして共有します。
その人の研修履歴などをもとにオススメの祈願研修をレコメンドしたりし、
位置情報サービスなどとも連携して、その精舎でのタイムリーな行事や
館長の説法などを通知。悟りを上げていくのは実はリアルの世界で、
それをWebと連携させ、それぞれの階層化されたゾーン(意識レベルの差)
で智慧を共有するのがミソです。情報の共有ではなく、智慧の共有です。
また智慧のオークションなどが左右上下でできると面白いなと思っています。
私はこの構想を「次元SNS」と呼んでいて、精舎での修行を進める中で
ポンとひらめいたアイデアです。
サイトの名前は「REAL」です。真実に出会う場、あるいは本当の自分に
出会う場としてこのように名付けました。
私は人間の本質は、その人の考え、意識、精神だと思っています。なので、
ネットの世界はある意味で本質に迫っていく可能性を持っていると
思っています。
過去、宗教は科学によって滅ぼされた歴史や、逆に宗教が科学を滅ぼした
歴史もあります。
でも私はどちらにも真実はあり、いまこそ、宗教と科学(宗教とIT)の融合、
ハイタッチとハイテクの融合がなされるべきときだと思っています。
私が将来的に構想しているものは、このSNS&QA内で大川隆法総裁の数千本
ものご法話ソフトをTEDのような仕組みで多言語化し、世界的な伝道システム
の構築を行うことと、更に幸福の科学の精舎で悟りを高めていくリアルの
修行システムと連動させて、次元別のSNS空間をWebに作っていくことを
考えています。
Web上にある種の曼荼羅を作ることに似ていますが、こうすることによって、
ある意味で上に行けば行くほど高付加価値の智慧が得られたり、意識の高い
人たちと出会えて新しいプロジェクトが発生したりといった具合になります。
単純に民主主義的に多くの意見をWebで集めるスタイルは、私は衆愚性に
なると思っており、高みを作る仕組みとこの民主主義の仕組みをうまく融合
させていく必要があると考えています。
私はこうした次の新しいソーシャルメディアのあり方を考えています。
佐々木さんはオウムの取材をされたことがあると思いますが、幸福の科学は
オウムとは全く違います。むしろ当時マスコミがオウムを持ち上げていた
時に明確にオウムの間違いと危険性を指摘していたのが幸福の科学です。
オウムのポア思想は死んだら人は解脱できるからでは私たちが皆さんを
あの世に旅立たせてあげましょう、ということで行き着いた先がサリン事件
だったと思いますが、釈迦が説いた本来の解脱の思想からは完全に逸脱
していました。
「生・老・病・死」四つの苦しみ(あるいは八苦)から逃れるために、
八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)という反省法
を行じて、自分の自我や心の迷いを断ち切り、本来いたあの世の天界の光
としての自己を取り戻し、心を安らかにする、あるいは真なる智慧を得る、
それが修行論の意味であったと思います。
現代では、様々な情報が氾濫し、様々な価値観が錯綜し、何が本当に
正しいことなのかがその善悪がマスコミも国民も分からなくなっています。
今の民主主義制度が必ずも善になっていないことは明らかですし、過去、
ギリシャの時代に偉人となった智者ソクラテスでさえも民主主義によって
殺されました。
ソクラテスの死を見て、徳治主義的な民主主義のあり方を目指したプラトン
に習い、徳あるリーダーが選ばれたり、真なる智慧が尊重される時代に
なっていくことを望みます。
以前、佐々木さんも週刊誌の質の問題点について言及されていたかと思い
ますが、ジャーナリズムのあり方も見直されるべきだと思っています。
それも、私は、智慧の不足からくるものだと思います。ソクラテスやプラトン
が霊魂の存在を信じて、あの世の実在界の世界を明確に意識していたように、
霊的なことを信じることや、宗教、哲学の復権が私は必要だと思います。
そして、戦前の日本神道的なファシズム的な狭さをもった価値観ではなく、
様々な価値観を包含しつつ個人の自由が尊重される中で、個々人がバラバラ
にならないよう一つの共通した信仰観、価値観を持ってより良い社会を築いて
いこうとする国家のあり方が求められると思っています。
私は、真なる智慧は、あの世の世界から導き出されるものだと思います。
エジソンが99%の努力と1%のひらめきと言っていたように、このひらめき
が宇宙や目に見えない世界からの叡智であると思います。
大川隆法総裁は年間の発刊書籍ギネス記録(年間52冊)を持っておりますが、
今、累計発刊冊数は1000冊を超え、現在進行形で数多くの霊言本をもの
すごい速度で世に出しています。もちろんゴーストライターなどはなく、
全て公開霊言で映像で出したものが、一冊一冊書籍となっています。
この霊言本も、読んで頂ければ分かりますが、出てくる霊人の個性はそれぞれ
違いますし、一人で演技でするのは不可能であることが分かります。
ある意味での霊界インターネットで、霊界にいるあらゆる霊人の潜在意識に
アクセスすることができます。これは霊界の存在証明のためと、世論啓蒙の
ためです。民主主義は神仏の声が聞こえない人間が、神仏の願われる国家
運営をするための代替手段として生まれたものですが、あの世の神々の声が
もし本当に聞こえるなら、その神仏の声のもとに国家運営をしていこうと
すること自体は、むしろ歴史を紐解けば必然の流れです。
霊人の意見は、幸福の科学の見解と矛盾する内容もありますし、幸福の科学に
とって不利な内容のものをありますが、あえてカットせず、全て公開して
います。それは信憑性を担保するためです。
様々な霊人の意見があるので、一つの価値観に集約はできませんが、これは
ある意味での天からの叡智だと思います。
ご興味があれば。https://www.irhpress.co.jp/
6/7、インターナショナルヘラルドトリビューン紙が、大川隆法総裁が行った
「マーガレットサッチャーの霊言」を好意的に取り上げました。
こちらの記事の書き手はアメリカ大手オピニオン誌「The Atlantic」
編集長のGraeme Wood氏です。
http://the-liberty.com/article.php?item_id=6151&utm_source=newsJpn&utm_medium=email
以前、「慰安婦の霊言」をとった時も、ネット上でTwitterなどで話題に
なったり、韓国のテレビで大川隆法総裁の霊言がニュースで報道され
ました。
橋下と慰安婦との会談が取りやめになった背景では、この霊言の効果が
ありました。こちらはネガティブな取り上げ方でしたが。
日本では黙殺ですが、海外メディアは、「霊言」というものをニュース価値が
あるとして取り上げてくれています。
また、安倍総理を始め、自民党関係者、自衛隊の方々、日本の心ある識者
の方々(日下公人さんや渡部昇一さんや竹村健一さんや、三橋貴明さんや、
堀義人さんや、田原総一朗さん等)も大川隆法総裁の書籍を読んで
下さっています。
真実が真実として扱われる時代がくることを切に願っております。
話が長くなりましたが、きっと佐々木さんなら真剣に受け止めて下さると思い、
メールさせて頂きました。メルマガなどで、「宗教とメディア」「霊言」
などについて取り上げて頂いても面白いかと思います。
。☆:・。*☆:・。*
いただいたメールは以上です。さて、私が非常に面白いと感じたのは、
以下のコメント。
「単純に民主主義的に多くの意見をWebで集めるスタイルは、私は衆愚性に
なると思っており、高みを作る仕組みとこの民主主義の仕組みをうまく融合
させていく必要があると考えています」
これは一種の「レイヤー型民主主義」「レイヤー型政治」のような概念
でしょうか。コメントでは、教団の階梯を上っていくごとに高い付加価値が
得られるという、一種の階層モデルをイメージされているようです。
一般社会ではここは上下のある階層ではなく、「社会のさまざまなレイヤー
ごとに」というビジョンの方が可能性があるかもしれません。
いまの政治制度の問題として、社会がこれだけ複雑化し、さまざまな問題が
噴出しているのにもかかわらず、政党にすべての政策を一任するやり方は
あまりにも乱暴すぎる......ということがあります。
「自民党のアベノミクスは支持しているが、エネルギー政策は評価できない、
またTPPもやめてほしい」といった声は少なくないでしょう。もちろん
「アベノミクスは認められないが、TPPはぜひ参加して欲しい」という声も
あるでしょう。
だったらさまざまな社会問題ごとに、意見表明して支持政党を変えるようには
できないだろうか?というやり方も考え得るでしょう。
しかし現実には、全有権者がそれぞれの問題を真面目に考えてくれるわけも
なく、社会問題のすべてについて国民投票をおこなうというのはまったく
現実的ではありません。
つまりここには、当事者vs非当事者の問題が生じてきてしまいます。
たとえば、どこかの地方で、あるダムを建設するか否かという問題が生じた
とします。その場合の当事者とはいったい誰でしょうか。ダム建設地域の住民
が当事者であるのと同様に、本来は下流の都市住民もダムの利益を得ている
という意味で当事者でしょう。
しかしこうしたダム問題は、地元住民には仲違いをもたらしコミュニティを
亀裂させたりと、苦しみが押しつけられる一方で、都市住民は「何となく」
「気分で」建設に反対し、あるいは賛成しているのにすぎないケースが
少なくありません。
かつて民主党に政権が変わった時、群馬県の八ツ場ダムが問題になったことが
ありました。民主党が公約通りに建設を中止しようとしたことに対し、たとえば
地元のブログはこう書いたりしたのです。
「民主党は今回の総選で八ツ場ダムの選挙区に候補者を立てていない!
これってなんだ?本当にそれが『民意』ってやつなんだろうか」
あるいはこういう意見もありました。「その土地の住民では無いのに土地の
人達の反発を中傷する人間は、『選挙で勝利した多数派である民主党の政策は、
国民の選択した正義。自分達の選択は無条件に受け入れられるべきだ』と主張
している事になるので、同様の理屈で『土地を奪った』人間の政策選択の分の
行動の責任は、もちろん『私はずっと反対だった』と主張する人間も共同で
背負う事になる」
ダム中止が民意の決定であるのなら、ダム遂行もかつての民意の決定だったと
いうことです。民意がそのように反転しているのであれば、それぞれの民意の
責任をいったい誰がとるのか?という重要な問題が浮上してくるわけです。
このような複雑な構図になることを考えれば、すべてのイシューについて
それぞれ国民投票、というような安易な方法がうまくいくわけではないのは
明らかです。
かといってアメリカ型の「ステークホルダー(利害関係者)民主主義」も
うまくいきません。非当事者を外し、利害の関係する当事者のみで議論すると
いうやり方は一見すると良さそうに見えますが、結局は閉鎖的なサークルの中
で議論が勝手に行われ、ロビイスト活動のようなものが蔓延することになって
しまうからです。
この問題を解決しようとしたのが、鈴木健さんの刺激的な著書
『なめらかな社会とその敵』(勁草書房)で解説されている「伝播委任投票」
です。これはネットワーク型の投票システムで、委任票を次々と伝播させて
いくという独自のシステムです。
以下のインタビュー記事がわかりやすいでしょう。
死票ゼロの「伝播委任投票」が、新たな民主主義のカギに
http://nx-times.com/news/2013/05/15/3199/
以下、インタビュー記事から少し引用します。「『この人には0.3票、この
人には0.7票を入れて、委任しましょう』と、自分が持つ1票を好きなように
分割して投票することができます。そのテーマに深い見識がある人は直接、
政策に投票すればいいし、そうでない人は職業政治家に限らず、詳しい人
に委任すればいい」
「委任された票はさらに別の人へと伝播し、例えば、AさんがBさんに
0.6票を投票して、BさんがCさんに0.2票を投じれば、AさんはCさんに
0.12票を投じたことになります。このような『委任ネットワーク』が議題
ごとに構成され、いつでも誰でも少しずつ代議士になることができる」
「例えば私であれば、ITには詳しいからその分野の政策なら力を尽くすけれど、
安全保障はAさんが詳しいから委任する、ということができる。
不満を持てばリアルタイムで委任先を変えることを可能にして、意見を集約
していく。そうすると『死票』は限りなくゼロに近づきます」
鈴木健さんのこのアプローチはひとつの解として十分に可能性があると思い
ますが、一方で、このような委任的な仕組みにレイヤーの概念を統合できる
可能性もあるのではないかと、いま考えをめぐらせたりもしています。
このあたりはもう少し論考が必要なので、先の課題とさせてください。
いただいたメールでは、以下のコメントも印象に残りました。
「現代では、様々な情報が氾濫し、様々な価値観が錯綜し、何が本当に
正しいことなのかがその善悪がマスコミも国民も分からなくなっています。
今の民主主義制度が必ずも善になっていないことは明らかですし、過去、
ギリシャの時代に偉人となった智者ソクラテスでさえも民主主義によって
殺されました。
ソクラテスの死を見て、徳治主義的な民主主義のあり方を目指したプラトン
に習い、徳あるリーダーが選ばれたり、真なる智慧が尊重される時代になって
いくことを望みます」
宗教の重要性は、この不安定な時代状況の中でますます高まっているのは
間違いありません。中間共同体が衰え、さらに国民国家も衰退しようとして、
頼るべきよりどころがどんどん小さくなってきています。そういう状況の中
ではネット右翼のようなナショナリズムが逆説的に盛りあがってしまいますが、
そうした偏狭なナショナリズムが何ももたらさないのは過去の歴史を見れば
わかります。かといって、一部の人たちが望んでいるような地縁・血縁の中間
共同体が復古してくるというのも、現実的にはあり得ない。
こういう状況の中で、どのようにして人が社会との紐帯を維持するのかと
いうのは非常に重要な課題になってきていると思います。シェアハウスや
コーワーキングスペースなどの流行も、こうした紐帯への人々の願望が
表出した結果と理解できるでしょう。
宗教も、紐帯の受け皿のひとつとして浮上してくるのは間違いありません。
宗教団体の方にこの本を紹介すると怒られそうですが、社会学者の
濱野智史さんが書いた『前田敦子はキリストを超えた』(ちくま新書)。
『前田敦子はキリストを超えた 〜〈宗教〉としてのAKB48』
Amazon.co.jp
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480067000?ie=UTF8&camp=1207&creative=8411&creativeASIN=4480067000&linkCode=shr&tag=sasakitoshina-22
タイトルが酷すぎるとかなり非難された本ですが、私はとても面白く読み
ました。AKB48には、宗教的なコミュニケーションシステムがあるという
指摘が面白いと感じたのです。濱野さんは、AKBとファンの関係には「近接性」
と「偶然性」という二つの特徴があると書いています。
近接性というのは、握手会に代表されるように「会いに行けるアイドル」
をコンセプトとしているということ。現代社会では人は他者とのつながりを
外され、貨幣の交換という関係だけにおとしめられて疎外されています。
しかしAKBの場合、単なる貨幣交換だけでなく、そこに持続的な信頼関係が
起きているというのです。
「それは見ようによっては、本当の人間と人間の関係性
(たとえば「本当の恋愛」)からの『疎外』にしか見えないだろう。
つまり、恋愛なら恋愛で、AKBのようなものにハマらず普通の恋愛をすれば
いいのに、AKBなどというものに『騙された』結果としてわざわざお金を
払って関係をつくっている。それは貧しい。
AKBを知らぬ者であれば、だれもがそう思うだろう」
「しかしそれは違うのだ。AKBでなければ生まれない、つながりが、絆が、
関係性が、あるのだ。劇場や握手会や総選挙といった場で、日々、AKBの
メンバーとファンの間では、無数の小さな関係性が生み出され続けている。
たとえば数秒から数時間にすぎない関係性だとしても、それでも、顔と顔の
向き合った、顔の見える、ある程度持続的な信頼関係がそこでは生まれている」
「無縁社会ということばが数年前に流行したけれども、かつては『関係性』
を提供する装置であったはずの地域コミュニティも企業組織も自由恋愛も、
いまや軒並み機能不全に陥っている。その機能不全を穴埋めするような形で、
いま、AKBのような『関係性』そのものを商品として売るアイドルが出て
きたのだ。いわば資本主義を批判するのではなくハックする形で、『疎外』
を『近接』に置き換えていく宗教的装置。それがAKBなのである」
私は2年前の著作『キュレーションの時代』(ちくま新書)
http://www.amazon.co.jp/
キュレーションの時代-「つながり」の情報革命が始まる--佐々木-俊尚
で、ブランド的な記号消費衰退の先に物語消費、さらには「つながり消費」
のようなものが急速に台頭してきていると説明しました。つながりそのもの
が売買されるという意味では、AKBはまさしくつながり消費といえるでしょう。
濱野さんはAKBとファンの関係の2番目の特徴として、「偶然性」を挙げて
います。AKBのどのメンバーを応援するのか(推しメン、というらしいですが)
ということについては、偶然性がいたずらをすると。
つまり劇場で偶然、目線があってしまったメンバーにはまってしまうという
ことがあるようなのですね。
「(AKBは)リスクにさらされた時代をどう生きるべきかについての示唆は
与えてくれる。剥き出しの『偶然性』に身をさらすとはどういうことか。
それは劇場におけるBINGOのような偶然性に身を委ねて、推しメンに導かれて、
『誰かのために』生きることだ。それは未来を予測したり、過去を振り返る
といった、普通の人間であれば当たり前に持っている『時間』の感覚を無化
することである。
ただ目の前にある『いま・ここ』を全力で生きるということ。これである」
そしてこの「近接性」と「偶然性」を入り口にして、ただひとりの少女を
無償で「推す」という行為こそが、宗教的であるのだと濱野さんは書いています。
「神が失われたこの社会において、端的に生きる意味を『近接性』と
『偶然性』のもとで与えてくれるのだ」
神の存在は、西欧的近代の知性の視点から言えば、合理的ではありません。
神との出会いはつねに非合理であり、偶然であるといえるでしょう。
そしてそこに「いま神とつながっているのだ」という直感的な身体感覚がある
からこそ、神を信じるようになる。
濱野さんのいうように、近接性と偶然性というのは宗教において非常に重要な
要素だと思います。
この偶然性と必然性を、資本主義と結託させているという点でたしかにAKBは
宗教的な要素を持っているのかもしれません。ただここで語られている偶然性
と必然性は、宗教の「身体的」な側面だけにポイントが置かれています。
宗教は身体性だけではなく、教義の存在が非常に重要です。
教義がなく身体性のみの宗教は、たとえば素朴な民間信仰がそうですが、
さらにその延長線上にはオウム真理教のような身体性を過度に偏重する教団
も存在しています。この違いはかなり重要な問題を孕んでいて、たとえば
現代の宗教から人々が離れていくのは、面倒な教義のためであるというような
ことをTEDでアラン・ド・ボトンは述べている。
アラン・ド・ボトン 「無神論 2.0」
http://www.ted.com/talks/alain_de_botton_atheism_2_0.html
話を戻すと、AKBの偶然性と必然性は、神の意志として実現しているという
よりは、総選挙や握手会、握手券つきCDなどによって巧妙に設計された
アーキテクチャとして機能しています。つまりこれはプラットフォーム、
すなわち「レイヤー化する世界」の用語を使えば<場>として機能している
ということでしょう。
だからこのアーキテクチャは中身のメンバーとファンを入れ替えれば、
日本市場だけでなく、グローバルプラットフォームとしても成立しうる。
プラットフォームによって、構造化される宗教。規範的権威ではなく、
環境管理によって支配する宗教的権威とでもいうべきでしょうか。
今後、このような構造化されたアーキテクチャ的教団というのが登場して
きてもおかしくはありません。
この構造は、いただいたメールの以下のコメントとつながってくると
考えます。「次元別のSNS空間をWebに作っていくことを考えています。
Web上にある種の曼荼羅を作ることに似ていますが、こうすることによって、
ある意味で上に行けば行くほど高付加価値の智慧が得られたり、意識の高い
人たちと出会えて新しいプロジェクトが発生したりといった具合になります」
この宗教アーキテクチャというのは面白い可能性を秘めていると思いますし、
こういうところから現代的な宗教の再構築というのが
起きてくるのではないかとも思います。
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メルマガの本文は以上である。私が今回のトークで林さんに聴こうと
考えているポイントは、以下のようなものだ。
(1)宗教はテクノロジーと融合していく可能性があるだろうか?
(2)自然への素朴な信仰心の高まりなど、宗教に対する期待感が高まって
いるようにも見える状況にもかかわらず、既存の宗教団体はそれを引き
うけられているとは思えない。なぜだろうか?
(3)これからの宗教において、身体性と教義のバランスは
どうなっていくのだろうか?
(4)『幸福の科学』は一連の霊言シリーズによって一般の人々の注目を
集めるマスリーチを採っているように私は捉えているが、これは一方で
教団に対する批判を高めてしまう原因にもなっている。
これについては教団はどう考えているのだろうか?
(5)これからの社会における重要なキーワードは多様性の容認だと
私は考えているが、そのような宗教は可能なのだろうか?
参考コメント
対談そのものが批判の的になっていることは承知していたが、
幸福の科学側の取り組みを読むのは初めて。
SNS+QAの仕組みなど普通の仏教が備えていてもおかしくはないし、
そうした取り組みがどのような効果を上げていくのかは、確かに興味深い。
そこから生まれてくるものが、政治の世界と結びついた時にどのような
民主制が生まれるのかという題材は大仰な気もするが、可能性は否定
できないし思考実験としては面白い。
惜しむらくは、そうした宗教と政治の接点の中で新しい取り組みを
積極的に行っているように見えるのが幸福の科学だったということなのだろう。
▼
神を信じる事が有っても、宗教を信じる事は無いだろうと思いますね。
所詮人が解釈した物に過ぎないのだから。
宗教は信仰を求める訳で、信仰とは無批判の許容を意味しますから、
基本的に科学とは相容れないものですね。
神とか信仰を論理の展開に導入すると、如何なる論理の飛躍も
許される事に成りますから、信仰と科学を同列に扱うのは、
科学が解っていないと思います。
但し、哲学思想としては興味深い物が有りますね。