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Civilizations and Impressions

準文明の研究9(融合型準文明 東欧型)U

2022-06-18 06:21:41 | 論文

第四章 融合型準文明

 【1 東欧型 】 

 

 融合型準文明の特徴は四方、多方面から文明や準文明などの影響を受けるが、自らの準文明以外に複数の文明の影響が重なり、融合する形で成立しているところにある。そういう文明として、「東欧」や「東南アジア」が挙げられる。こうした場所では、多民族、多言語、多宗教が成立することが多かった。ここではそうした融合型文明のうち、東南アジアと比べてよりシンプルと思われる東欧から考え、次に東南アジアについて考えていこう。

 

 まず東欧から見ていくが、この地域は6世紀ごろ、スラブ民族が侵入することによって、その基礎が築かれたといわれている。当時ヨーロッパはビザンチン帝国、ローマ教会、フランク王国とわかれていて、侵入者はどれかに属さないと、攻撃される状況にあった。

 

 スラブ民族は西スラブ、南スラブ、東スラブと分かれており、今でいう西スラブはポーランド、ボヘミア、スロバキア、クロアチア、スロヴェニア、南スラブはセルビア、ブルガリア、ギリシャ、東スラブはウクライナ、ロシアとなり、これ以外にマジャール系のハンガリー、ラテン系のルーマニア、アルバニアとなるが、宗教で見れば、西スラブはカトリック、南、東スラブはギリシャ正教となる。この他、ハンガリーはカトリック、ルーマニアはギリシャ正教となっていった。

 

 こうした宗教分布は、それぞれ個人の信仰によって成立したのではなく、国の支配者の意向によって決まったのであり、ビザンチン帝国、フランク王国、ローマ教会の勢力争いと関係していた。西スラブについてはフランク王国とローマ教会の勢力争い、南、東スラブについてはビザンチン帝国の勢力が強かった。しかしこのヨーロッパ文明の三勢力も力関係が時代によって変わり、9世紀にはフランクとローマ教会は統合された。変化する状況の中でスラブ、東欧諸国はそれぞれ勢力拡大を図ってきた。まずはブルガリアが勢力を拡大した。ビザンチン帝国は東方をササン朝ペルシャ、その後はウマイア朝、アッバース朝他に圧迫されただけでなく、西方からはブルガリアによって圧迫されていた。一方で西ではローマ教会とフランク王国が結合し、その後、神聖ローマ帝国となり、ローマ教会に密接なポーランド、はじめギリシャ正教を選ぼうとしたがカトリックを選んだボヘミアが成立した。そしてビザンチン帝国と関係の深かったセルビア、マジャール人の国であったハンガリーが成立し、東スラブではキエフ公国が設立され、ギリシャ正教をとり入れた。

 

 これら東欧諸国は一進一退で膨張、衰退を繰り返したが、東からモンゴルやオスマントルコの侵攻、西からはドイツ人による植民活動の影響を受けながら、状況に合わせ東欧の諸国は連合、分立を繰り返してきた。外部からの侵略は経済に対する圧迫となり、国内産業の発展と深い関係があったドイツ人の植民活動は、東欧諸国の中央集権化を妨げる原因ともなって、後の西欧による東欧支配に大きな影響を与えた。

 

 ビザンチン帝国は第四次十字軍でフランス、ベネチアによって制圧され弱体化が進んでいたが、1453年、ついにオスマントルコによって滅ぼされた。これより前、オスマントルコはすでにバルカン半島深く侵出しており、南スラブではイスラム化が進んでいた。現在のサラエボやアルバニアはその名残である。オスマントルコは南スラブの居住地やハンガリーを制圧し、1529年にはウイーンを包囲した。

 

 東スラブではモンゴルに攻撃されてキエフ公国は滅び(13世紀)、モンゴルはポーランドまで攻め込んだ(1241年)。その後、東スラブでは、キエフ公国から分派したモスクワ公国を発祥とするロシアが台頭することとなった。

 

  東でビザンチン帝国が滅び、西で神聖ローマ帝国が衰退していく中、西欧が次第に勃興してきたのだが、この過渡期の間、一部の東欧諸国が台頭した。ポーランド、ボヘミアそして北欧諸国の勢力が高まった。これらの国の台頭には鉱物資源の開発が関係していたが、西欧のような中央集権化に成功することができないまま、諸侯の力が強く残っていた。こうした諸侯は西欧市場と結びついており、グーツヘルシャフト(再販農奴制)※によって東欧は西欧の世界システムに組み込まれていき、東方では中央集権化に成功したロシアによって圧迫されるようになっていった。ボヘミアやハンガリーはオーストリアに組み込まれた。

 

 19世紀になると、オスマントルコの衰退により、まずはギリシャが独立(1830年)し、南スラブやルーマニアをめぐってオーストリアとロシアが対立するようになった。露土戦争(1877年)により、バルカン諸国が独立すると、この両国の対立はさらに深まり、第一次世界大戦のきっかけとなっていった。

 

 東欧諸国の特徴として中央集権化が進みにくかったことが挙げられるだろう。それは複雑な民族、言語、宗教の分布があり、頻繁に内部対立があったこと、そしてそれを常にその時代の「上位」の国家、ビザンチン帝国、神聖ローマ帝国、モンゴル帝国(キプチャクハン)あるいはロシア、オーストリア、オスマントルコが介入してきたところにこの準文明の特徴はあったといえる。複雑に融合する融合型準文明はS・ハンチントンのいう「フォルトライン」を方々に形成しやすくし、上位国家が介入しても解決をさらに困難にし、かえってエスカレートさせることが多かった。

 

  第一世界大戦後、ヨーロッパ文明は容易にはまとまらないこの東欧地域の多くに民主制を導入し、東欧をある程度一体化させると同時に、これらをフランスに指導させたが、第二次世界大戦では再びドイツに占領され、ドイツの敗北後はソ連に支配かつ指導されることとなった。冷戦の終了後、ユーゴスラビアでは国家が倒壊、激しい内戦が生じた。これに西欧諸国、ロシア、イスラム諸国が介入した。旧ユーゴスラビアの内戦はS・ハンチントンの著作「文明の衝突」に大きな示唆を与えた紛争であった。その後、ほとんどの東欧諸国は西欧につくようになり、ロシアといくつかの国を除いてEU、NATOに加入した。

 

 

   こうしてみてくると、東欧諸国は周辺にあった諸文明の状況によってふりまわされてきた準文明ということができるだろう。近年ではドイツ、ロシア(ソ連)によって振り回されてきたが、こうした歴史がEUの中においてどのように活かされていくのか、あるいは同じように、しかしもっと複雑な融合型準文明といっていい東南アジアがASEANとして順調に発展してきたのを見て、どのように考えているのか興味のあるところである。おそらくは東欧諸国(辺境型準文明である北欧諸国も含めて考えた方がいいかもしれないが)はEUの中であっても、その中でさらにASEANのように連携していくことが望ましいのかもしれない。そしてそのことが、ドイツ、フランスとは異なる、別の新しいヨーロッパを生み出す原動力となっていくことになるのかもしれない。そういう意味で東欧と東南アジアは興味深い地域といえる。

 

 

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