golden days

nonsense sentence contents and fictional experiments

191009 リテラシー

2019-10-10 | Weblog
今この時代が、多分に情報量の過多であり(ある意味それがパラドキシカルに、情報弱者を生み)、物事の判断を惑わせるものであるならば、SNSやらの手段を使って堂々とw、情報を拡散していこう、もっともっと拡散し、撹乱をしていきたいと思う人たちは多くいると思う。

でも、最終的にはレシーバー
情報という不確かなものを、その人がどう受け取るかの話であって、んなもん、知らんこっちゃねーな突き離し的な反応もあるだろう。

けれども自分的には、最近のキーワードとしては情報に対しての「リテラシー」であり、この世界の自分たちが生きている生活の根本としての文脈が、今の政治とか国のシステムにどれだけ関わっているか、もしくは依存しているかをどれだけ日常生活の中で理解しているかということ。

でも、それが「リテラシー」
うーん、うまくまとまらない。。。

191008

2019-10-08 | Weblog
音を奏でることの快楽と
言葉を綴ることの快楽と
言葉をインプットすることの快楽と
それらの快楽の狭間にて
右往左往しながら
人生の喜びをかみしめている自分がいる

これ以上のブルーズがあるかという状況においてもなお
その状況を笑いに変えようとしている自分がいる

言葉であり
声であり

180921 自分の中でのなつかしい椎名誠

2018-09-21 | Weblog
寝る2時間前に「ぱいかじ南海作戦」なる日本映画を動画サイトで見つけて、気楽に見始めた。最初からコメディ感満載な日本映画は、三谷幸喜以外は大抵見るのをやめてしまうのだが、主演の阿部サダヲの強烈なキャラにやられてついつい見続けてしまう。

30代後半にして離婚と失業を同時に味わう主人公が新境地として南の島へ行く、という設定はありがちだけれど、沖縄の離島なら一体何処の島へ行くのだろうか、という興味にも引きずられる。
島に到着した初日から、テンポの良い、めくるめく展開。様々な場面にちりばめられた笑いの要素も、ありえねー!けれども笑いに変えていく、離島という設定としての極限状況のもたらすマジックのようなものが、妙にリアル感のあるスパイスとして効いている。

話はさらにテンポ良く展開していき、現代社会(というか「東京」に象徴される都市との比較)へのシニシズムを浮き彫りにしながら、あれやこれや、面白おかしくエンディングへと向かっていく。映画としても単純に、いや、素直に面白かった。日本のコメディ、状況設定と話の流れ的には海外でも通用するくらいのコメディではないか、等と思いながらエンドロールを眺めていたら、原作がなんと椎名誠(!)とあり、心底たまげた。

椎名誠の名前を見るのも久しぶりだけれど、前知識無しにたまたま観て、あー面白かった、と思った映画の原作が、10代の頃に「この人の書く文章や小説は面白い!」と共感していた人だったと分かった時に、大げさに言えば、自分の中での時空を越えた感性のつながりを思った。

当時、もう何の雑誌のどこに書いてあったかなんて全く憶えていないけれど、日々の生活の中でも椎名誠の言葉がふと思い出されることがままある。
例えば「排水口のヌメヌメとしたところを自分の手で掃除した時に初めて、それまで何も言わずにそれをやっていた母の偉大さを思った」とか、「目の前に出された牛丼について、あらゆる視点から記述しようと思えば、原稿用紙に何枚でも書ける」とか。

そんなホントにトリビアなネタだけれども、10代の頃に読んだ彼のセンテンスが、いまだにこうやってスイスイと思い出されるくらい、じわっと自分の中に染み込んでいるなつかしい椎名誠という存在を、その映画のエンドロールから思い返してしまった。

たぶん、世の中に対して真っ向から振りかざす切っ先鋭い「正論」の人が与える「痛み」というものの本質を理解しているが故の、脱力しながらむしろ「撫でていく」くらいのスタンスとでも言おうか。「脱力系」だが「物事の本質系」という彼からの影響は、もはや今更否めない、と思い至った今宵。

180623 粘性

2018-06-23 | Weblog
歯磨きの後に吐き出した唾が、ぬるっとした動きで排水口へと吸い込まれていった。世の中がせわしなく動いていても、物質の動きは世の中のIT化とは全く関係なく、変わらない。そのぬるっとした動きは、言わば、粘性とでも言い表すことが出来る。自らを押しやる水量が少なければ、粘り、絡み、排水口へと流されていくことに必死に抵抗を示すかのようないじらしさに、その意志さえも浮かんで見えてくるようである。

仮に、その粘り、絡み、抵抗の意志があるとしたらなんだろう。物質が示す抵抗値。果たして抗うことの目的とは何か。本来あるべき環境の変化に対して、物性の限りを尽くして抵抗するという作用。それに意志を見出すのはこちら側の勝手な見解だけれど、物性としての抵抗については、考えれば多く思いあたる。

フライパンにこびりついた焦げ、ネジ山が切れてしまって逆回転できないネジ、湿気を帯びて反り返ってしまった木板、交換しようと思って開けたら泡を吹いた後のようになっていた古い乾電池、などなど。物が物として存在することに、最後まで必死になっているようなさまを見るたびに、そこに物の意志を感じることも然り。

飛躍して、完全に比喩の世界なのだが、精神的な粘りとは何であろうか。日々の生活における出来事をそこはかとなくこなしていく力、もしくは、起こりくる出来事を積極的に乗り越えていくようなモチベーションにしても、精神的な粘りのある方がきっと上手くやっていける。生命としての生存の問題に還元しても良い話なのだけれど、あくまでも日常のモチベーションの話として、精神的な粘りがどこから来るのかを考察してみたい。

いわゆる、トラウマに相当するような精神的にも辛い体験を乗り越えてきたとすれば、その値よりも低い経験については、その人はトラウマの経験による粘りを持って対処可能な状況にあるといえる。経験値が物事に対する粘りを生み出すのかもしれない。

180424

2018-04-24 | Weblog
「読む」という行為は、自分を世界にアンカリングするということ
時代や言葉や国を超えて、本という媒体が自分と世界をつなぐことに
「読む」という行為の本質的な喜びを見出す

180417

2018-04-17 | Weblog
・安倍とか麻生とか、実は「かませ」なんじゃないかと。
ここまで悪事を働いても追放されないで居座る。
そんなパペット(操り人形)が居座れる状況を誰が作ったのか。
誰かが作ったとしか思えない。

・空間の話。
ツイッターの空間、インスタの空間、フェイスブックの空間。。。
その他諸々、SNSなり、Inet上の新たに築き上げられた空間があり、
そこにアクセスしている人達の空間意識とは何ぞや。

実感として無くても、そこに居られるという空間意識。
人はどのようにして、アイデンティティを保つのか、
それが感覚として、5感として、空間まで含めないと成り立たない。

180203

2018-02-03 | Weblog
もはや美しいもの・ことにしか興味がない

何処に「美」を見出すかという問いは残るが
様々な情報の取捨選択の基準となるのが
「美しいかどうか」というフィルターであり
それ以外のものの自分の人生への介入を
極力排除し時間を使わない

美しいもの・ことに対しては
残りの人生の時間を最大限費やす

などとたいそうに思ってはみたものの
今までの生き方と全然変わっていないことに気がつく

180117

2018-01-17 | Weblog
あらためて50に近い歳になってきていることを認識すると、今日、明日しかり、これからの働き方について考えざるを得ない。もう徹夜するような仕事の仕方もあり得ないし、年相応に責任を伴った仕事の納め方もしてきているつもり。

でも、仕事でちょっと無理目な時、ある臨界点を超えると耳鳴りがしたり、こめかみが痛くなったりした時には、それがアラートであると最近は思うようになった。酒とタバコですでに身体への負荷が掛かっているのだから、もうそろそろ身体の声を聞きながら、考え方からあらためることもあるのかなと。

別に長生きしたいわけでもなく、早死にしたいわけでもなく、限られた生きる時間を普通に全うしたいだけの人生。それでも、ここ数年の表現領域への接触からか、ギターにしろ、演技にしろ、もう少しそれを極めたい欲望的なものも少なからず芽生えているのかもしれない。

自分が何を表現したいのかとか、するのかとかも、実はそれももうどうでもいい。生きることそのものが表現であるというスタンスであれば、それを残された時間の中で、自分なりに探り続けることが出来るかというだけの話。

180106

2018-01-06 | Weblog
我々は夜の静けさの中で
再び眠りという仮死状態へと突入する

無意識の海を泳ぎ
無意識の大陸を駆け抜け
意識の自由を凌駕する自由を手に入れる

歴史や文脈とも切り離され
古い友と新しい人達が混じり合い
祝杯と疑心暗鬼と出し抜きを経験し
歪んだ空間からの知恵を拝借し
また意識下の素晴らしい朝へと蘇生する

我が眠りに幸あれ

171212

2017-12-12 | Weblog
ホームの際に1本の赤い薔薇。世の中大抵そんなものだろう、などと思っている時にこそ、意外なものが意外なシチュエーションで現れる。そこには、己のイマジネーションの中で様々な物語が展開していく可能性が隠れている。

意外なこととは何ぞや。日常見慣れている風景の中でも、光の当たる角度や風の吹く向きによってさえも、意外なことは起こり得る。受け手の感受性や視点、経験を経てきた視野とモノゴトを類推する力、などにもよるのかもしれない。

171114-4 「記憶の不思議さについて」

2017-11-14 | Weblog
その時、自分の行っている動作の中で、あることが連想されて、ある人や状況を思い出す、みたいな経験から、人の記憶とは何ぞや、ということに思い至る。

例えば、ある部分の掃除をしていて、こんな律儀なことしているのって…と思った瞬間に、あ、あのイベントを主催していたあの夫婦は、あのイベントを成り立たせるために律儀にもいろんなことをやっていたなー、とか。

自分的には、何故掃除をしている時に、彼らのことを思い出したのかが分からない。何がきっかけになったのかも分からない。たぶん、何かがトリガーになっていたんだろうとは想像つくけれども、分からないし思い出せない。

そこが記憶というモノの面白いところで、たぶん、身体的な何かがトリガーになっているのではないか、くらいな考察をしてみたいのである。

171114-3「猫の悪意」

2017-11-14 | Weblog
打合せに出掛けるために、急いで仕事場で靴を履き替えようとした時、革靴の中にコロコロとした小さなモノを発見した。よく見てみると、明らかに仕事場を住居としている猫のう○こであった。え?なんでこんな所にあるの?という驚きと共に状況を推測する。

猫のトイレから革靴までの距離は約2m。トイレにて出したモノを、持て遊びながら転がしてきて靴の中に入れるという距離にしては遠すぎる、いや、そもそもそんな芸当が出来るはずがない。奇跡のホールインワンは、あり得ない。

では、革靴をトイレとみなしてそこに直接出したとしたら。そんなにコロコロしていないだろうし、普段の様子からしてその大きさの一つだけではなく、もっといくつも出しているはず。

果たしてなぜこういう状況になっているのだろうかと思いながら、近くにあった食事の皿を見た時に、もう半日以上カリカリを補給していなかったことに気がついた。ゴメン!

それにしても未だに疑惑は晴れないし、コロコロとしたモノに気がつかずに靴を履かなくて良かったとの安堵はジワジワとやって来る。

171114-2

2017-11-14 | Weblog
「匂いが立つ」と言う表現、確かに空気の流れに乗って匂いは上昇するものなのかもしれない。
居なくなって半年以上経った頃に、猫のトイレがあった付近をいつになく入念に拭き掃除していた時のこと。
掃除が終わってスッキリしたと思ったら、ふと懐かしい匂いを感じた。
長年、床材や配管に染みついていたのが、拭き掃除をきっかけとして開放されたのか、
言葉通り、匂いが立ち上がってきた。

171114-1

2017-11-14 | Weblog
形態操作だけの現代建築にも飽き飽きしてくる
気候とか温度や湿度
大きくいえば風土すらもその写真からは感じ得ないような「新しさ」にも
全く辟易しています

170726 美しいと思うこと

2017-07-26 | Weblog
夕べ、娘と妻に「何を美しいと思うか」という質問をした。娘は「シャチが水上に跳び上がる姿」と言い、妻は「蟻の集団の生態」と言った。共に、お手本かのような素晴らしい答え。

おそらく人は自然界から多くの美しさを感じ取ってきたであろうし、その手で創り出すモノにも自然の美しさへの畏敬の念が込められていたり、その頭で考えて捻り出すことも、自然の美を越えるほどの思いの入った秩序や公式だったりするであろう。

さらなる美しいものへの希求こそが、人の好奇心を突き動かしているのではないかとさえ思える。自然の造形であれ、人工物であれ、音楽であれ、モノでなくとも人の心であれ、人との関係性であれ、何かしらの「美なるもの」をそこに見出し、もっと美しいものを見たい、知りたい、聴きたい、創りたいという衝動へと駆られるのではないのかと。

さらに言えば、決して大げさでもなく、人は美しいもののために生きているのではないか。「美とは何か」という抽象的な問い自体はプラトン以来果てしない歴史があるけれど、「あなたは今、何を美しいと思うか」という問いは、心のあり方や価値観含めた、その人そのものへの問いである。

だとすれば、今現在「何を美しいと思うか」ということを抽出していくことは、その人自身の生きる質(QOL : quality of life)を知る一つの指標にさえもなり得るのではないだろうか、と思った。