「漆黒の闇」はつくろうと思えばつくれるかもしれないけれど、「真の静寂」はなかなかつくれない。たとえ全く音のないタイトな防音室に入ったとしても、自分自身の身体からの音まで消すのは難しいだろう。
小さい頃から音楽は常に身近にあったし、様々なジャンルの音楽を聴いてきて、まさに「No music, no life」だと思って生きてきた。歴史的にみても言語より音楽が先行しているのだと思っていたし、むしろ、言語も音楽の一部くらいな認識。
けれどある時にふと、音楽の全くない環境に身を置いてみたらどうなるかと思い、仕事もそれ以外の時も音楽をシャットアウトしてみた。そうしたら、またいろんなことが見えてきた(inner sightだけど)。
都市部に居れば、室内の冷蔵庫や家電の音、空調室外機の音、ビル風の音、車や緊急車両の音、通りの話し声やご近所の生活音など、音に関して言えば事欠かない。
一方、自然の多い地域に居たとしても、鳥の声、虫の声、木々の揺れる音、遠くの飛行機音など、真の静寂からは程遠い。
目を閉じることは出来ても、耳を閉じることは出来ない。それでも、そもそも人は聞きたいものしか聞こえてないし、可聴域というのも年齢を経て変化していく。意識をどこにフォーカスするかによって、何が聞こえるかも変わってくるのは明白だ。
日常的な情報というのも、自分にとって何が本当に必要なものか、という視点を持ったならば、殆どの情報、9割8分は雑音としか思えなくなる。雑音を避けて、意識を集中させた時に「真の静寂」が得られるのかもしれないし、心の中にしか「真の静寂」はありえないのかもしれない。
小さい頃から音楽は常に身近にあったし、様々なジャンルの音楽を聴いてきて、まさに「No music, no life」だと思って生きてきた。歴史的にみても言語より音楽が先行しているのだと思っていたし、むしろ、言語も音楽の一部くらいな認識。
けれどある時にふと、音楽の全くない環境に身を置いてみたらどうなるかと思い、仕事もそれ以外の時も音楽をシャットアウトしてみた。そうしたら、またいろんなことが見えてきた(inner sightだけど)。
都市部に居れば、室内の冷蔵庫や家電の音、空調室外機の音、ビル風の音、車や緊急車両の音、通りの話し声やご近所の生活音など、音に関して言えば事欠かない。
一方、自然の多い地域に居たとしても、鳥の声、虫の声、木々の揺れる音、遠くの飛行機音など、真の静寂からは程遠い。
目を閉じることは出来ても、耳を閉じることは出来ない。それでも、そもそも人は聞きたいものしか聞こえてないし、可聴域というのも年齢を経て変化していく。意識をどこにフォーカスするかによって、何が聞こえるかも変わってくるのは明白だ。
日常的な情報というのも、自分にとって何が本当に必要なものか、という視点を持ったならば、殆どの情報、9割8分は雑音としか思えなくなる。雑音を避けて、意識を集中させた時に「真の静寂」が得られるのかもしれないし、心の中にしか「真の静寂」はありえないのかもしれない。
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