golden days

nonsense sentence contents and fictional experiments

誇りと寛容について

2004-12-13 | Weblog
最近日本語や英語以外の言語圏の人々を、街角や電車内でよく見かけるようになった。インド、フィリピン、ブラジル、中国、韓国の人かな、等と推測するのだが定かではない。その時に思うのは、もし自分が彼らとコミュニケートするとすれば、英語ですることになるのだろうし、もし相手の日本語が堪能であれば問題なく日本語であろう。「ここは日本なんだから日本語で話せ」という人がいるかもしれないが、コミュニケートしたいと思うのであれば、いずれか共通の言語を持ってするしかない。

「日本なんだから日本語で…」というのは、日本人であることもしくは日本語に対する誇りやこだわりがベースになっていることが多いとは思うが、言い方を変えれば、コミュニケーションを拒絶している面もないとは言い切れない。もちろんフランス的に(笑)「郷に入れば郷に従え」という姿勢もある。使用する言語というのはその表層であるとしても、いずれにせよ自文化に対する誇りと他文化に対する寛容さとのバランスの中で、異文化コミュニケーションは成立するのだと思う。

数日前に時間が無くて書いた箇条書き「ディスコミュニケーションに対して」について補足すると、もちろん日本人同士でのディスコミュニケーションが問題になってくることに対してという意味ではあった。しかしあらためて考えてみると、少子化後の移民大量受け入れ時代を迎えるにあたり、他文化圏・他言語圏の人とのコミュニケーションが、日常生活の上で必要不可欠となるのは明らかである。

その時には、いつまでも日本村社会の「あ、うん」の会話だけでは成り立たなくなるし、一番怖いのがコミュニケートを放棄し、排斥する方向にいってしまうことである。特に閉じられた世界(村社会)においては、歴史的にも(村八分)ありがちな方向である。そういう意味でも、来るべき時代におけるコミュニケーションのあり方については、「言語」の問題はもちろんのこと、それ以前のメンタルな「姿勢」の問題が肝になってくる。グローバル/ヴァナキュラーというテーマは、自文化に対する誇りと他文化に対する寛容さに通じると認識している。

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3 コメント

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ボーダレスはボーダフル (dyts)
2004-12-14 00:18:33
この文章はおそらく私の昨日の文章に呼応して

くれたのだと思います。ありがとう。



| 「日本なんだから日本語で…」



というのは、私は「日本語で話すから私たちは

日本人で、日本語が話せる場所が日本、日本人の

いる場所が日本」なのだと思っています。これは

日本や日本人の定義としていい線だと思います。

特に新千年紀、それが大げさだと言うのなら

新世紀向けの解釈と言えるでしょう。

この定義は私独自のものではありません。

これは対談までに調べておきます。



さて、異文化や他文化(この二つは同じ?)を

受け入れることは、ストレスになると思います。

そのストレスの解消として、上記文化を排除

する方向に流れる気がしています。それも

アンダーグランドの世界で(たとえば寄席)。

このことを私は「ボーダレスはボーダフル」

と読んでます。これもオリジナルじゃなくて、

私の元の師匠、西部邁氏のもの。



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キャッチボール (call the bluff)
2004-12-14 01:59:58
まさに「対談」というよりは、キャッチボールかな(笑)。呼応してます、ありがとう。



「ボーダレスな状況になることによって、逆説的にボーダフルになる」というのは、人間の心理としても、本質的なところだと思いますね。
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業務連絡です (dark yellow tribal skin)
2004-12-14 16:50:51
対談前半部終了しました。

後半部をください。

対談のやり直しは必要ないかな。

結構な分量です。

私の日記を見ると分りますが、全てを抑えて

最優先で作業しています。今も(コラッ)。

あと、二回目の対談のテーマを考えてください。
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