以前、伊豆の下田に小旅行した際、個人で合掌造りの古民家を移築・管理している村上さんという人と話した。観光的にたまたま寄っただけだったが、薀蓄の多いガンコおやじといった風情で、面白おかしく説教された。
その中で特に印象深かった話があった。合掌造りのような民家には、下働きも含めて何十人もの人が一つ屋根の下で生活していた。いわば、大家族制の大農家である。村上氏曰く、そこで生活していくときにプライバシーというものをどうしていたか。それは、「見ざる聞かざる言わざる」という日本人の「美徳」によっていたという。視界に入っても見て見ぬふりをする。聞いてはならない筒抜けの会話があったら、聞かぬふりをする。言って良いことと悪いことを判断し、あえて言葉にしない。つまり、全て「相手に気をつかう」ということを自然とやっていた(やらざるを得なかった)ということである。冷静に考えれば、現代よりもストレスが多い世界だったのではないかとも思う(笑)。
それが「美徳」であるかどうかは別としても、人と人とのコミュニケーションが居住形態によって形成されていたのだという村上氏の指摘は、自分も設計の専門としてうなずけるところがあった。合掌造りの大農家でなくとも、大家族、もしくは多くの人々が出入りする家というのは、子供にとって人とのコミュニケーションを学べる最初かつ最良の教室であろうと思うからである。
あえて「言葉」にしない「以心伝心」が成立する環境は、心地が良いし、ある意味「美しい」とも感じる。ただ、現代においては、コミュニケーションのベースがその時代のように単一かつ単純ではない為に、様々な問題が起こってきているのだともいえる。住宅というハードの問題であり、家族のあり方というソフトの問題でもある。
その中で特に印象深かった話があった。合掌造りのような民家には、下働きも含めて何十人もの人が一つ屋根の下で生活していた。いわば、大家族制の大農家である。村上氏曰く、そこで生活していくときにプライバシーというものをどうしていたか。それは、「見ざる聞かざる言わざる」という日本人の「美徳」によっていたという。視界に入っても見て見ぬふりをする。聞いてはならない筒抜けの会話があったら、聞かぬふりをする。言って良いことと悪いことを判断し、あえて言葉にしない。つまり、全て「相手に気をつかう」ということを自然とやっていた(やらざるを得なかった)ということである。冷静に考えれば、現代よりもストレスが多い世界だったのではないかとも思う(笑)。
それが「美徳」であるかどうかは別としても、人と人とのコミュニケーションが居住形態によって形成されていたのだという村上氏の指摘は、自分も設計の専門としてうなずけるところがあった。合掌造りの大農家でなくとも、大家族、もしくは多くの人々が出入りする家というのは、子供にとって人とのコミュニケーションを学べる最初かつ最良の教室であろうと思うからである。
あえて「言葉」にしない「以心伝心」が成立する環境は、心地が良いし、ある意味「美しい」とも感じる。ただ、現代においては、コミュニケーションのベースがその時代のように単一かつ単純ではない為に、様々な問題が起こってきているのだともいえる。住宅というハードの問題であり、家族のあり方というソフトの問題でもある。
みかん農家では今の時期が収穫です。
昔は方々から手伝いに来ていました。
そんな中で育つので、人づき合いは苦にしません。
また、そんな中で育ったのでプライバシーの
概念がありません。
これを簡単に良し悪しで二分することはできません。
ただ、現代人のストレスのほとんどは対人
関係によるもので、愚母のような経験を
幼少期にしていないからだと思いました。
ストレスが始まったのだろうか。
でも、会社人たちは毎晩のようにtribal custom、
つまり同僚との酒盛りを行っている。この時期は
特に。これは一体どうしたことか。
俺の仮説が間違えているのだろか。
そうは思えないのだが…
障子だけでは境界としての役割を果たしていません。
そこを人間の意識で補うことで、「境界」が完成します。
call the bluff様のお好きな言葉を使うなら(私の使いたくない
言葉でもあるのですが)ハードとソフトの関係にあると思います。
日本の奥ゆかしさです。障子がなくなることで
三猿がいなくなったのは
興味深い現象です。再びctb様のお好きな言葉で
もの申せば、
「ハードの衰退で関連ソフトまで衰退する」と
言うことです。