golden days

nonsense sentence contents and fictional experiments

「都市の記憶」とは

2020-09-27 | Weblog
ここ数年の渋谷駅周辺の変貌ぶりは、激しい。日々通る道が変わるし、ほぼ半世紀渋谷に生まれ育った人間としても、もう「わからん!いい加減にしてくれ!」的な感想。ましてや、7年前に他界した本物のハチ公を撫でたことのある自分の父など、生きていたら今の渋谷は人生の迷路であろう。

人の記憶というのが、状況、情景、によって担保されるのではないかという考察のもと、渋谷駅周辺(だけではなく、どの街での開発・再開発でも現代においては全く同じなのだが)の変貌を見るにつけ、どんどん昔から馴染んできた風景が、自分の記憶の襞へと押しやられていく感じがある。

その根本を問うていくと、日本の近代化とは何ぞや、もしくは現代の情報化とは何ぞや。日本の伝統と現代、職人という身体感覚とAIのこれから、身体のあり方と食や今でいえばvirusとの関係、建築や空間の創り方と創れる素材の限定、法律や情報統制で出来る出来ない、等々、キリがない。

もう「都市の記憶」のようなものもリアルな体験としては無くて、ヴァーチャルな空間との境界が無い時代なのかもしれないと。今までの芦原、槇、丹下、海外ではクリエ、ヘルツベルハー、クールハース等の建築論や都市論すら、いつの時代の話ですか?なところまで来ている感がしてならない。

「都市の記憶」とは人々の記憶の集大成でしかないとしても、日々変わりゆく街を目の前にして、都市の得体の知れないモチベーションに動かされているものが一体何なのか、何処へと向かっているのかという興味は尽きない。(とはいえ、もうあまり興味なくなっているんだけどね)おしまい。

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