独白

全くの独白

約30年の空白

2021-08-22 22:25:22 | 日記

先日NHKのニュース番組を見て居ると、野球に就いて報じていた。その様子を「いき つまる」攻防とか試合、とか言って居る。多分「息詰まる」との原稿を、そう読んでしまったのであろう。

いろんな番組に出ている女性アナウンサーで、私等も好感を持っているので、貶すつもりはない。

NHKのアナウンサーがどうかすると民放に劣る程、下手になってしまったのは随分前の事で、今更驚く事も無い。下読み等する暇も無いといった間違え方も多く、忙しさが想像されて、同情するばかりである。

下手なアナウンサーが十分に教育される時間も無い儘長年を経て古参になってしまえば、指摘してくれる者も居なくなって、うかうかするうちに付け焼刃の鈍って、元の木阿弥になってしまった事に気付かないので、同じ木阿弥の新人アナウンサーが同じ木阿弥である事にも気付かず、注意する必要を感じないのであろう。それが循環しているので、その子のアナウンサーとしての非常識も、強ちその子一人の責任とは云えまい。

ただ驚かざるを得ないのは、その子が多分30年内外の来し方の中で恐らくは、「いきづまる」と云う表現との邂逅が無かったという事実である。 


宇宙と泥土と人間

2021-07-13 21:58:17 | 日記

ソナーは、超音波を使い、水を隔てて魚群や船体や機雷を感知する。

レーダーは、電波を使い、空間を隔てて船体や飛行機や浮遊物を感知する。

では水や空気や土などを隔てて、人や他の動物などの、有機体だけを感知し得る様な波は無いものであろうか。

あの現場の映像を見ているとそう思われて来る。

在って、それをドローンにくっつけて、現場の上を飛ばして、遠隔操作する事が出来れば良いのに。

捜索する人も待っている人も、いくらか楽になれるのに。

「民間人が宇宙へ」というニュースを見るにつけても、つくづくそう思われて来るのである。


打って滅びるか、打たずして滅びるか、それが問題だ

2021-06-22 22:19:43 | 日記

新型コロナワクチンを、母は早く打ちたいと云うので、受け付けが始まって3日目に、電話で申し込んだ。5月の確か早い時期であったが、「ワクチン・・・」と云うや否や、「6月23日の午後に、一人分だけ空いてます」と高飛車に言われ心中むっとしたが、需給というものを顧みて恐縮しながら御願いした。一旦は打たないと決めた私の心も揺れ始めた。相談の上打たない事にした母の、舌の根の乾かぬ内の変心の所為である。私だけが罹患して、逆縁になっても困る。入院するだけでも母は困る。罹患した私から母に移っても剣呑である。高齢で糖尿病の私と高血圧の母の二人揃って打って戴くのが、矢張り安全かも知れない。併し罹患しての後遺症も怖いが、少量と雖も毒を体内に注入するのも気は進まない。

抑薬でもワクチンでも、殊にわが国では、5年も10年も掛かって漸く承認される在りようが、顰蹙を買って居るとの印象がある。それなのにこのワクチンに限って半年や一年で、東洋での治験の殆ど無いにも拘らず、承認されてしまった。第一輸入先の外国で、開発に掛けられた期間が固より短過ぎる。あまり長期間掛けるのもどうかと思うが、短期間に過ぎるのも如何わしい。更には、慎重過ぎる従来の態様を、一顧だにしない、詰まりは自己への裏切りを何とも思わない不実な者の決定なので、輪を掛けて信じられない。

尤も私等にも名案は無い。緊急避難の為の、是非も無い適応外使用だと言われれば、敢えて異を唱える心算も無い。併し問題はここにこそある。緊急避難とか非常事態と云う言葉は、心を戦かせ、思考を停止させる。

為体の知れない病気を厭わない者は居らず、其の蔓延防止にワクチンを使おうとしない為政者は、例外的にしか居ない。世界中で猫も釈子もがワクチンに群がり、而も其の事は肯定されて、軈て世界的全体主義になりつつある。

政治的にも経済的にも厚生上でも何でも、全体主義というものには胡乱な匂いが付き纏う。社会を離れては存在し得ぬ人間存在の弱味に付け込み、流れに乗り又自ら湧き起こり、人心を統べ個々の思考を停止させる力を持つように思われるのである。

結果としてこの新型ワクチンも、新型ウィールスに成り代わって、全世界を席捲する事に為ろう。この新型ウィールス用ワクチンは、インフルエンザワクチンの様に、毎年のように打つ必要があるとの説と、持続性があり、一度(無論主な現状は2回)で済むという説とがある。前者が当たっているならば、面倒な代わりに後腐れは無い。に対して後者を唱える学者の中には、これは従来無いタイプのワクチンで在り、体内で際限無く増殖を繰り返し、変異もし得るばかりか、体外に出て感染源になって仕舞う蓋然性迄大きく在るという人さえ居る。

終生免疫の得られるワクチンには、天然痘の物等があるが、それらは恐らく簡単に承認されては居らず、剰え長日月を閲して使われ続け、安全上、効用上の、信頼を得ているのに対して、このワクチンは学者さえもが、「従来無いタイプ」と云う程の物である。実績が無いのである。

にも拘らず世界中が前のめりになっている。少しであっても体内に、毒を招き入れるのであり、当然慎重になる筈の所でそうなって居ない風潮が恐ろしい。頼るべからざる事物に自らすすんで頼るのである。何かに魅入られて居る様でさえある。

ところで吾人は、滅亡譚が好きである。滅亡は郷愁を誘う。遺伝情報にある、滅びる前の故郷には、決して帰る事が出来ないし、それだけに元来浅薄で偏った吾人の記憶の中の故郷は美しい。

剰え身の毛の弥立つカタストロフィの瞬間の記憶自体も、当然遺伝情報に深く刻まれていて、甘い香を放って居る。そのような瞬間に立ち会う経験は奇跡的で、望んで得られるようなものでは無い上に、時にはポンペイを埋め尽くしたヴェスヴィオの噴火の様な夢にも見られぬ豪壮な美を、吾人は目の当たりにしても来たのである。

又稀少性を持たずとも醜くとも、恐ろしい事物そのものが、人間を魅了する。恐怖も比較的強く脳裡に、延いては遺伝情報に刻まれる上に、吾人自身にも恐ろしい一面というものが確かに内在する事から、恐ろしい事物への慕わしさと云うものをも、人間は抑持っているのかも知れない。

滅亡譚にはアトランティス大陸、ムー大陸等に就いての荒唐無稽なものから、インカ、アステカ等に関わる由緒あるもの迄、数多あり、これらの中でパンデミックで滅びたものが如何程あるか、寡聞にして知らないが、近頃では、14世紀のペストでも、前世紀のスペイン風邪でも、人類は言わずもがな、滅びた文明と云う程のものは無いようである。

マンモスの絶滅の原因としては、伝染病説もあるが、時代は扨置いても、これは人間の話では無い。近頃無いからには、これからもパンデミックで人類や文明の滅びるような事は先ずあるまい。例えば中世のパンデミックでも、一人残らず罹患するのを坐して待って居た筈が無いから、当然の事ではある。

併しワクチンは、自ら進んで殆どの人の摂取しようとしている点が、伝染病自体よりも遙かに剣呑である。木に登っても、天辺で落ちた話はあまり聞かない。下りて来て、あと1mと安堵した時に、よく落ちるのである。吾人を滅ぼし得るものも、伝染病よりは寧ろ安心の種、ワクチンであるという事に為ろうか。

充分に危険性を把握していても、吸い寄せられる様にそこへと近付く他に途の無いものとして、ITがある。斯くいう私も流れに呑まれて、こうしてPCに頼って居る様に、ワクチンをも母に付き合って、打つ事に為ってしまうのかも知れない。

生まれた人は必ず死ぬ。始まった事は、いつか終わる。汗水垂らして息急き切って、文明の坂を上り切って有頂天の人類が、勢いに任せて背中を押される様に坂を駆け下って居る時その先に、奈落の待ち受けている事に気付かなくとも無理は無い。桑原桑原。

 

 

 


持久戦か短期決戦か

2021-03-16 00:43:14 | 日記

5~6日前のある日、我が北陸三県で新型ウィールス感染者が揃って0であったのに対して、東京では300を超えていた。それを見て両者の傾向が異質であるような気がした。このウィールスに関しては、二つの地域が異国同士ででもあるかのように思われたのである。北海道などでも、近頃は二桁の日が多い。この日も65であった。この日は4都県だけが律儀に三桁を守り、中でも東京は340であった。4都県の外では、0の日が漸増しつつあって「収束」が視野に入って来て居るのに、4都県内では皆無で、同じような数が見られ続けていて収束の気配が感じられない。異次元のような感さえある。

緊急事態宣言の解除が口の端に掛かった途端に先走って、首都圏では人出が増しつつあるように見える。尤もな事で、誰もが「解除までこの横ばいは続くのではないか。だとすればピーク時から或程度下がって今位の数字になってから今までの日々の辛抱は無駄だったことになるな。更に解除後ももし横ばいで進むとすれば、そもそもこの宣言自体無用のもので、上がったのも季節的要因などによってであり、宣しなくても自然にこの程度までは回復していたんじゃないだろうか」と云う様な気分になって居たとしても、責める事は出来ない。誰もが疲れているのである。打開のためには思い切った事をする必要がある。

いっそ4都県とその他の府県とを、違う国と見做せば良いかも知れない。ロックダウンである。代償として、圏内での規制は緩いものとする。その間に有効な削減法を考えるのである。尤も法的にわが国ではできないらしい。併し非常時である。時限立法でも特例法制定でも何でもするが良かろう。具体的には、4都県とその他の府県との行き来を、バリケードでも何でも使って完全に止める。トラックの荷物は、拠点を設けて積み替える。商売であろうと無かろうと連絡は、ITで済ます。外国から来た人は、羽田か成田か東京湾に入ってもらって、4都県から出さない。他の府県とのやり取りは、無論テレワークで済ましてもらう。オリンピックでは、要人でも何でも、札幌でのマラソン見物は、遠慮して貰う。

併し走者は札幌に行く必要がある。又親子の今生での別れ迄をも、遮る訳にも行くまい。又、トラックの荷は積み替えられても、電車や飛行機の荷は、そう簡単には行くまい。詰まり完璧なロックダウンは不可能であるが、指向すれば結果は随分違って来よう。この渾沌とした現実界を、論理で完璧に把握して万事を解決する事は出来ない。併し何事に於いても、良く解決しようと欲するならば、良く捕捉し、良く記述し、良く分析する事が必要である。総てを一緒くたにして考えていても、埒はあかない。区分や分別は、何に於いても、有効な手立と為り得る。

4都県だけが閉じ込められるのでは無い。他の府県も又閉じ込められるのである。4都県の人は、大雪山にも屋久島にも行けなくなる。しかし私などの方でも、ディズニーランドにも横浜の中華街にも行けなくなるのである。身内に遭えなくなる辛さも互いのものである。

日本を枠で囲って、水を張ってみる。東京に墨を垂らすと、全国に広がって、混ざり合う。止まる者も在り漂泊する者も在って、秩序は皆無である。濃い所が薄くなっても、墨は補給され続け又濃くなる。薄いものが濃いものの領分に流れ込み、濃いものは薄いものの領分に入り込んで、混ざり合いは際限が無い。次に4都県をも枠で囲う。東京に墨を垂らしても外には出ない。ところが生憎枠には穴があり、幾分流れ出る。併し他府県の墨は薄く、雨が降ったりしているうちに、軈て水は澄む。4都県の墨は最初は濃いが墨壺に栓が施され、幾度かの雨などを経て、遅れて澄んで行く。勿論自然に任せて、長引いても時間而已による解決を俟つ遣り方もあるが、官民ともにそれは望んでいない様に見える。それならば・・・・と云う話である。

ワクチンは私も打って戴く心算では居るが、承認が早過ぎて、今一つ信じ切れない処がある。併し私は、高齢で糖尿病である。感染した時の危険と副反応の危険とを天秤に掛けると、矢張り打つしか在るまい。同様に流行っている所では、軽重にかかわらず感染したりさせたりする危険と、副反応の危険とを天秤にかけてみれば、打った方が好かろう。

4都県に限らず、流行る処はロックダウンして、優先してワクチンを注ぎ込み、打ち捲れば良い。そうすれば集団免疫の獲得が予見されるので、圏内での規制は、緩くする事が出来よう。ワクチンが我が国に無料で入る事は無かろう。つまり高かろうと安かろうと、血税が使われるのである。費用対効果を重々検討してから使って戴きたいものである。

又税と云うものは必要性の、より高い処で使われる方が畢竟は、帯びる公平性も高くなるもののように思われる。地震でも台風でも、被災地に集中する事に、苦情を唱える者は普通在るまい。

 


拭い切れない事物

2021-02-16 00:51:03 | 日記

森さんは元来失言の名人である。私は面識も何も無いが、同じ石川県の人であり、地方紙にしか載らない話もあり、噂話も聞いたりする処から、失言同様軽率な失策も多いような印象を持っている。そこに愛嬌もありあの手の人の常として、ガキ大将的な魅力も大いにあるのであろう。そういう人が有能な実力者として長日月を閲するうちに陥りがちな事の一つに公私混同がある。

今度の事も、文脈からは、暗い悪意が感じられない。極めて私的な友や家族との居間での会話でなら冗談で済まされたものを、公の場でしてしまったのがまずかった。公人の発言に現われたものだから攻撃されるのであり、個人の脳裡にだけあるものを非難する事は出来まい。それだけの差で、こんなに囂々たる非難を浴びなければならないのか、との思いが、あの謝罪会見には現われていた。

併し多分非難は森さんを通して実は、私や非難している当人を含めたすべての人間の内面の在りように向けられているからこそ、こんなに激しているのである。

IOCは、掌を返す前に一旦謝罪会見を受け入れた。一夫多妻の国がある。女性は自転車にも自由には乗れない国がある。アバヤ、ニカブ、ブルカと、覚えられないほどのもので容姿を隠す事を強いられている女性たちが居る。マララさんに至っては意見を表明しただけで危く死に掛けてしまった。

特に日本人の目を惹くのはムスリムであるが、男尊女卑は、ムスリム特有ではない。キリスト教下にも、仏教下にもある。この上なく宗教に寛容な我が国にある位であるから、ユダヤ教下にもある事であろう。無論宗教と無関係にも在る。

通常人間が間投詞などを除いて、ものを言う時には、意思に基づいて居る。併し思わず漏らしてしまう言葉の基は、少なくとも意識下の意思では無い。下意識の意思である。下意識の基礎となる事物のうち、後天性のものは体験とその繰り返しであろう。先天的なものは、遺伝情報である。根深いのは遺伝情報である。体験が草の根なら、遺伝情報は木の根である。人格を得てからの体験は、選択の対象であり得る。時間的にも高の知れた体験から得た下意識など、比較的容易に変え得るという事である。遺伝情報は、そうは行かない。気が遠くなるような長日月を経て形成されて居る上に、根を掘り返して細工できるような代物ではない。男尊女卑の遺伝情報は、いつごろ吾人の脳裡に巣くったのであろうか。

思うに少なくとも生物というものは、向上性を有すると思われる事を顧みると、未だ吾人の脳髄の、獣並みに薄弱であった頃であろう。頼るほどの脳髄が無ければ、幅を利かすのは腕力沙汰である。腕力に勝れたオスが尊ばれ、メスは卑しまれて居たのであろう。

最先進国米国の、黒人への差別に就いても、正式な奴隷制度の敷かれて居たのは、200余年の間に過ぎない。その間に脳裡に染み着いてしまった、不条理な差別意識さえ、これだけ甚大な犠牲と、激しい抗議活動に因っても、拭い果たされずに在る。

更にはその黒人の母なる大地アフリカでも、婦女子への虐待は横行している。

又、維新から150年足らずの我が国でも、政治家や官僚のシンタリティの基の遺伝情報には、国の資財は決して、国民から寄託された血税などではなく、己が私財同然の上、さも紙切れや空き缶のように扱うべしとの、条項があるかのように見える。

アベノマスクや、新型コロナワクチンと注射器に関わる勘定の仕方からは、そうとしか見えない。

意識でも資財でも、本来自身に属する筈の事物の、実態が儘ならぬものであるとき、その程度の大きい程、苛立ちは募るものである。

而してその苛立ちを解消して、本来の姿を取り戻す迄、如何に困難でも吾人は諦める事が無い。好むと好まざるとに拘らず人間は、そのようものに出来上がってしまって居るのであるから、恐らくはこれも又遺伝情報に因って。