独白

全くの独白

犬も歩けば事故に当たる

2017-11-06 21:17:55 | 日記
完璧な快晴下、サイクリングに行って来た。十月の天候が悪く、あまり行けなかった分、今月は宜しく御願いしたいものである。冬も近く、雪になれば乗れない事でもあるし。
ともあれ、今日は素晴しかった。100km離れた後立山連峰の垣間見られる所さえあった。先日悪戦苦闘した土石流に因る土砂もすっかり片付けられた今日、私とモーグ(自転車の愛称)を遮る物は何も無かった。
満ち足りて人界に帰って来ると、交通事故の現場に出交わした。小さな交差点に壊れたバイクや救急車が在り、乗り手はもう車中に収容されているらしい。警察の車も在るが、まだ一人しか来て居ない警官は、通り掛りの郵便配達の人と一緒に交通整理をして居り、調べ始めては居ない。
救急車の人が報告書のようなものを手にして「バイクの人が、車と衝突したと言っているが、どの車でしょうね」と一人の女性に問い掛けると「私です」と彼女は言って、近くの駐車場に案内する。呼ばれていない私も付いて行く。
女性の事とて事故に慣れて居ないらしく、救急車の人に頻りに自身の正当性を主張している。
「バイクのスピードがかなり出てたみたいでふらついてましたよ。右折してた私の車の後ろの方に突っ込んで来たんです」車を見ると、確かに左の後輪がバーストして、その周りの車体も傷付いている。
自身が大通りを進んで居る所へ、横の小路や駐車場から、出て来たバイクが衝突したのならば確かに、車が通り過ぎるのを待てなかったバイクが悪かろう。併し対向しているからには、直進車が優先と決まっている。況して相手は車に対しての弱者である。右折する方が、ちゃんと間隔を見極めて動くべきである。
彼女は警官にも「ちゃんと見た」と主張するに違い無い。併しちゃんと見たのならば、ぶつかっている筈は無い。ぶつかってしまったという厳然たる事実が、ちゃんと見なかった事の、何よりの証左なのである。徒見るだけでは何にもならない。状況を正しく見極めて、その状況に相応しい行動をとって初めて、ちゃんと見たと言えるのである。車でも何でも、止まって居る事があれば動いている事もある。一度チラリと見ただけでその如何が解る筈は無い。二度以上見るか、一旦止まって凝視する必要がある。その短い時間に、動いた距離が即ち速度を表わしている訳で、それをこそ把握する必要がある。その上で、相手が高速で走っているならそれを加味して、自身の取りたい行動をとって良い距離か否かを見極める必要がある。
速度違反をしている相手には、ぶつけてもよいと言う事にはならないのである。
保険会社や検事の見解は知らず、私はそう思う。
又彼女は、バイクをふらつかせたのが、他ならぬ自身である事にも気付いて居ない様である。
バイクには乗らずとも、自転車位には乗る事であろう、二輪の急ブレーキの、四輪とは違う危険に気付いているべきである。
このような事故を起こす人の多くは、違反している相手にならぶつけても、相殺されて自身の責任が軽くなる等と思っている訳ではない。単に自分本位なのである。然もそれを自覚しては居ない。結果として甘えが生じる。下意識ではこんな風に思っているのであろう。
「早く某所に着いて、あれもこれもしなくては成らない」そして何の根拠も無く、他者もそんな自身の都合を理解してくれているように思い「少し位無茶をしても、多めに見てくれる筈、待ってくれる筈、ブレーキを掛けてくれる筈」。
悪意は無いのである。併しそれだけに却って危ない。暴走するような輩は、危険を自覚して遣っているだけに、周りを無視するような顔だけして見せて、存外見ている。に対して善意の持ち主は当然、自身が危険の種に為っている等とは、夢更思って居ないのであるから、全く無警戒である。
その間は常に警戒を要求される車の運転中に、全く無警戒なのであるから、こんな危ない事はない。
車の運転というのは、生まれて初めて乗ろうとする際の印象とはまるで違って、慣れれば超簡単である、そう思い勝ちである。確かに普通の状況で、普通の乗り方をする分にはそうかも知れない。オートマが普通の昨今であれば、尚更である。
併し何事につけても、技術の他に必要なのがセンスである。或程度のセンスも無い者に免許等・・・と言いたいところであるが、その有無を試験で見極めるのは難しかろうし、こんな車社会では、聞く耳を持つ者とて在るまい。
この上は少しでも早く、全自動運転車の普及する様、運転センスの無い人の為に祈るばかりである。