母の面会へ&私も終焉へ

2024年02月06日 21時22分22秒 | 介護

 昨夜も早目にベッドに入りました。

睡眠は想像以上に大切なようですが、なかなか質のいい睡眠を取ることは難しいです。

私の場合ひとつには運動不足が上げられると思います。

 

 

 

 今朝の果物

 

 

 

 昨日に続いて「アンナプルナ」をしていました。

正式番組名は「地球トラベラー グレイトヒマラヤ撮影日記」で、再放送です。

今週1週間続くようです。

 

私がネパール&インドに行った時はまだデジカメが普及してしなかったのか、私がカメラに興味がなかったのか(それはないと思うのですが。子供達のたくさんの写真に困っていますから)、普通のカメラを持って行きましたので、ここにアップ出来ないのが残念です。

デジカメで撮影してもきちんとバックアップを取っていななっかせいで、カナダのオーロラの写真などがないです。

でも、これは旧ブログにアップしていますので写真は見ることが出来ます。

しかし、悲しいことに間違って上書き保存してしまった為にブログアップした小さな写真が残っているだけで、PCの中にはない状態です

考えたらアメリカ2回分もないですし、カナダ2回分もないですし・・・って、これはカメラでした

その他の旅もほとんどがカメラ。

あるのはハワイ2回目、3回目とアルゼンチンだけみたいです、多分

 

このアンナプルナの、細長い全貌の絵はがきを買って来ていて、これは番組が終了するまでには写真を撮ってアップ出来そうです。

あとはエベレスト遊覧をしたブッダエアーの証明書とか。

 

 

本当に美しいアンナプルナ連峰

 

こちらはムクチナートとムクチナート寺院

 

氷点下の中を水に打たれながら歩くのはどこかで観たことがあって、ここだったのか~と今朝思い出しました。

 

ネパールの川沿いでも死体を焼いていますが、ガンジス川のように「聖なる川で沐浴」はしていなかったように思います。

ちなみにインドでひどい「インド熱」(私が勝手に命名)にかかった私達ですが、まだ病み上がりだったので皆、沐浴はしませんでした。

私は足だけ入りました。

そして、流したかった過去のものとお花をガンガーに流しました。

その後ヒンズー教のお坊様が額に「ティカ」を付けて下さいました。

インドのことは又の機会に。 

 昨日、旅の話を友人としていて、母が娘の所へ私が行くのをダメだと言っていることを話すと「もう私達もそんなに時間が残っていないのに。頭がしっかりされているのにそういうことは考えてくれないのかなあ。」と言いました。

母は84歳でアルゼンチンに行きましたので、それを考えるとまだ時間はありますが、私が元気にその時まで生きているかは不明ですし、びみょう~。

むしろ、生きていないでしょうと思います。

母の年代の人は心身共に強いですが、私の年代はそうではないと思います。

旅慣れた人とそうでない場合でも違うでしょうが、何歳まで海外旅行に行けるかしらと思います。

とにかく心身共に元気でないと行けません

 もう残された時間から物事を考える年代に入ってきたようです。

友人達も「もう次に買う車が最後かなあと思う」と言う人が増えて来たような。。。

私は乗りつぶそうと思っていましたが、ちょっとそれは難しいかも。

断捨離や家のことも、やはり「心地よい今」と同時に「終焉に向けて身軽にしておこう」と考えていますし。

 

 

 

 

 

 

 

 今日は整体の日でした。

膝や身体のメンテナンスで何だか忙しい。

でも、この期間に気が付いたことは今までのように「漫然と生き」ていたのでは又どこかに支障が現れるということ。

(決してそのようには生きてきたつもりはないのですが)

身体も動かしていると思っていました。

忙しく日々を送っていますので動いていると思っていましたが、これからは意識して動かしていかないといけないことに気が付きました。

整体が終わって、母の面会に行くにはまだ早かったので、公園を少し歩くことにしました。

それにしても綺麗な青空~と思っていましたが、どんどん雲が増えていきました。

 

少し来なかった間に、もう梅の花が咲き始めていました。

 

 

椿もあちらこちらで咲き始めていました。

 

ご近所のピンク色の椿

主がいなくても毎年綺麗に花を咲かせています。

教会の水仙とミニバラ

 

11時45分、母のショート先のクリニックに到着。

母は食堂に居て、お食事が運ばれて来るまでしばらく待ちました。

 

食堂には6人。

半分はひとりでは食べることが出来ず、もうひとりは介助が必要。

でも、介護士さんはおひとり。

ほとんど最後になってもうおひとり来られましたが、多分、この方はお部屋で食べておられる方の介助をなさっていたのではないかと思います。

母はなかなか食べないそうですが、食べさせるとコンソメスープを半分くらい残しただけ。

エンシュアも2本目を飲み切っていました。

食事の途中で母は右手で右の前方の頭を何度も触って「頭が痛い」と言いました。

聞けば昨日からとか。

胸苦しさはなくなったと言いましたので安心しましたが、頭痛の原因は何

首が凝っている

気圧の関係

今回に限ってカロナールを持たせていなかったので、介護士さんに必要なら持ってきますと伝えました。

あとで看護師さんに相談されると言われていましたが、電話がないということは大丈夫だったかなと。。。

これらの会話を聞いていたせいか、母が「又、今日、来る」と言いました。

「お薬が必要なら来るけど、お洗濯もしないといけないからね」と言いますと納得したのは頷きました。

 

ラウンジのお花

明日の金曜日がお花のボランティアさんが生け変えられる日です。

 

クリニックのお庭の梅

 

かなり曇ってきて小雨も降ったようです。

 

帰りに、けやき通りを通って

 

この近所に住むママ友の顔を見に行きました。

不調だと言っていましたが元気そうで良かった

 

 

 

 

 今日は私は又、聖ミカエル達のお世話になりました

無くしていたのはクレジットカード。

しかも土曜日のこと。

ポイントカードなどを見たのであるものと思っていましたが、昨日、薬局などの支払いの時にない

それでも、今日にかけて探していました。

車の中とか、もう探す場所がないという時になって、聖ミカエルを思い出し、お願いしました。

それが整体に行く前。

一連の行動後、帰り道でスーパーの前を通った時、寄るように促しを感じたのに、「スーパーで落としたなら連絡をしてくれるはず」と思い(頭の中で考えた)、家に帰りました。

帰宅後、もう一回探しましたが、マジない

そこで、スーパーに電話をしました。

ありました~~~

そこのスーパーのカードではなくクレジットカードだったため連絡先がわからず保管して下さっていました。

もちろんすぐに取りに行きました。

セルフレジで落としたようです

土曜日のことで、看護師さんが来られる前に母を置いてほうれん草を買いに行った時に急いでいたので落としたようです

本当に何度このスーパーで物を落としたやら。

その度に戻ってきました。

注意散漫では済まされないです。

もしかして認知症の始まりと思ってしまいます

 

 

 

 

 

 先程(8時35分)、珍しく母から電話がありました。

母が電話をしてほしいと看護師さんに頼んだようです。

看護師さんに一番に頭痛のことを尋ねましたら「夕方からは言われていないです」と言われほっとしたのも束の間。

母に電話を代わると「頭が痛い」「メイバランスがほしい」「痰が切れない」等など、入れ歯を外しているので聞き取るのに非常に困難を極めました~

が、何とかわかりました。

看護師さんが又バイタルチェックをして下さり「何かあればご連絡します」と言われ、メイバランスも持たせているのでそれを持って来て下さり・・・

痰についてはそこは病院だから吸痰もして下さるから大丈夫と伝えました。

その時にはもうメイバランスを飲むのに一生懸命になっていました

やれやれ

 

 

 

 

 

 

★致知一日一言 【今日の言葉】2024.2.6

 

絶望の中で掴んだ暗闇を突破する心の持ち方

どんな状況でも、
何とかぐっと踏ん張って
心に小さな希望の灯火を
絶やさず持ち続ければ、
必ず暗闇を突破できる。
━━━━━━━━━━━━━━
梅津絵里(車いすインフルエンサー)
○月刊『致知』2024年3月号
特集「丹田常充実」【最新号】より
━━━━━━━━━━━━━━

●愛する人との結婚生活がスタートし、
人生の幸せを噛み締めていたまさにその時、
難病の全身性エリテマトーデス(SLE)を
宣告された梅津絵里さん。
6年間に及ぶ壮絶な入院・闘病生活を経て、
いま人々の心に笑顔と希望の灯火を届けたいとの思いで
社会活動に尽力する梅津さんに、
絶望の中で掴んだ暗闇を突破する
心の持ち方をお話しいただきました。

梅津さんの記事の概要はこちらから

 

 

 

 

★致知出版社の「ご縁メール」

 

≪ゼロからのスタート/北海道で一番を目指す≫

 

最新号のインタビューを飾るのは、
北海道石狩地域を本拠に
総合物流事業を展開するエース社長、
林 博己さんです。

30歳で創業された当時は、
まさに徒手空拳からのスタート。

「営業は断られてからが本当の始まり」

を体現されてきた林さんの体験談には、
苦しい中にも、営業を楽しまれている
境地にあるようにも感じられます。


取材の様子はこちら
───────────────────


──いかにして業容を拡大してこられましたか?

苗穂運送が以前から手掛けていた
コンクリート二次製品やダクト(通風管)の
配送業務を中心に、大手の下請けが主な仕事でした。

「独立したら仕事やらせてやるよ」
と言ってくれたお客様のところを訪ねると、

「えっおまえ、本当に独立したの」と驚かれ、
「いつ潰れるか分からない会社に、
そう簡単に仕事を頼めるわけないだろ。
一年くらいしたら来いや」って。

どこへ行っても同じ対応でした。

話が違うじゃん、酷いなと思ってね。

その時に、同業で高校時代の友人が
「おまえ、仕事ねえんだべ。うちの仕事やるから」と言って、
トラック2台分くらいの仕事をくれて助けてもらいました。


──捨てる神あれば拾う神あり、ですね。


そう。本当に有り難いですよ。

ただ、いつまでも下請けをやっていては仕方ない。

エースという社名には、
北海道で一番の運送会社を目指す
という思いを込めていました。

北海道一になるには北海道で
一番の会社さんと取引をすればいい。

菓子卸のナシオさんや
日用品卸のあらたさんなど、
大手を開拓すべく営業をしまくりました。


当然ながら最初は門前払いです。


しかし営業は断られてからが本当の始まりですから、
何回も何十回も仕事をもらえるまで通い続けたんです。

「しつこいな、おまえは」

「すみません。他に行く所ないんですよ」と。

終いには「もう来るな」
「はい、分かりました」と言って翌日また行く(笑)。

それで先方も私を諦めさせるために、
無理難題のような仕事を与えてくる。


私は

社長兼
運転手兼
配車係兼
営業マン兼
集金係兼
トイレ掃除のおじさん、

全部やっていましたし、夢と希望を支えに、
朝5時から夜12時まで寝る間も惜しんで
365日休みなく働いていましたから、
完璧に応えたんです。


そうしたら、
「いやいや、本当にやってのけた」と驚嘆されてね。


真面目に一所懸命やる姿勢が、
相手の琴線に触れたんじゃないですか。

そうやって一つずつ大手の仕事を開拓していきました。

コメント (4)
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