石ころ

夫と礼拝へ (メッセージ「神のみ前」から)



共に白髪になっても、主のお憐れみによって元気に礼拝出席できることは本当に感謝。
兄弟姉妹との賛美はとっても嬉しい。メッセージはルカの福音書12章1~12から後山師が語ってくださった。

「パリサイ人のパン種には気をつけなさい。それは、彼らの偽善のことです。」偽善という言葉のもとの意味は「演じる」、「演技」であり、その行いは神に向けてではなく人に向けられたものです。

おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。(ルカ12:2)

人からどの様に見られているか、それを気にしていると神様のことばがおろそかになります。
人の前に演じ分けることができても、神様のまえには自分を使い分けることは出来ないので、心が苦しくなり罪意識が増してゆくのです。
ですから、イエス様は人を恐れるのではなく、「天の神様を恐れなさい」と言われるのです。


 メッセージの後の方で、「明日ママが居ない」を引用して、「ポスト」が「愛」を演じることを通してその苦しさを話され、私は家に帰ってからも思い巡らせていた。

私も最終回を見ていた。
ポストは養母になる方の亡き娘「愛」を懸命に演じることによって、養母の中にまだ見たことのない母の愛を求めていた。その結果ポストらしさを失って、おどおどと尽くす姿を施設長は目にする。

彼はそれまで、彼女自身の選択による事だと突き放していたけれど、実際に養母の顔色を伺い続ける彼女を目撃したとき彼の怒りが爆発する。そのようなポストの姿は彼の激しい痛みとなったからだ。

彼女は母を知らず、赤ちゃんのとき施設長に引き取られて育てられた。そうして彼の影響を受け続け、いつしか実の親子のように考え方から行動まで良く似ていた。しかし二人ともそのことには気付いていなかったのだけれど・・。
人は、ただ一緒に居るだけで似てくるものなのだ。彼らは心の痛みまで似ていた。

施設長が目の前でおどおどと義母の顔色を見るポストを見たときの怒りは、父の悲しみであったのだと思う。大切に育ててきた娘が、なぜこのように不安の中で怯えて過ごさなければならないのかという・・悲しみ。


 主を信じて救われた者が世に振り回されて、世に気にいられようと懸命に良い子を演じ、世の顔色を伺っておどおどとしてる姿を、父なる神様がご覧になるときどれほど心を痛められることだろうと思った。
神様にはすべてが見えているのだから・・。それはアバ父の悲しみを掻き立てることになるのだろう。

造り主は、ひとり子イエス様を信じる者を養子とし、ただ、信仰によって神の家族としてくださった。
親しく「アバ父」と呼ぶことを赦し、みことばの乳によって愛と忍耐をもって育ててくださっている。

イエス様の完全な贖いによって神の家族の中で、その欠点ぐるみまるごと受け入れられていることを知っているなら、その立場に安らいで「アバ、父!」と日夜喜んでいるだろう・・。
良いときも悪いときも、「あなたは何処に居るのか」と探される者ではなく、ただ、ただ、御側ですべてを知られている存在でありたい。そうすれば、主に依って似たものに育てられるのだから。


そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4~5)

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