石ころ

聖所に仕える資格 ⑤(民数記18章)

 

 これからはもう、イスラエルの子らは、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪責を負って死ぬことのないようにするためである。(22)

 

戒めはすべていのちの守りのためである。神は御子をたまわるほどに、愛してくださる良い方であるが、聖なる神に受け入れられるには、罪のきよめが必要なのである。人の善悪は汚れていて、神の聖さをわきまえることが出来ないからである。

 

 文学にも聖書からの言葉が用いられている。長いみことばが書き込まれている小説やエッセイにふれることもあるが、まったく的外れな理解で語られるのを見る時、無知によって失われて行くいのちを惜しむばかりである。

 

全地の創造主として父なる神を知る謙遜がなければ、聖書を読んでも、奇跡を経験しても、知識は世に歪められ、奇跡も時間によって消耗されて行って、キリストが準備してくださった永遠のいのちに至ることはない。いのちに至らない聖書の知識ほど、無残なものはない。

 

人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。(マタイ12:32)

 

自身の創造主を知らぬまま、聖霊には拠らず、いのちの言葉をまな板に乗せて、知識や経験を用いて好みのままに調理する傲慢は、十字架のあがないを無にしてキリストの悲しみとなる。その筆者は、読者をもゲヘナの道連れとしているのである。

 

みことばは人の知識の上に積み上げるものではなく、創り主なる神を「アバ・父」と呼ぶ幼子のような謙遜により、聖霊に導かれたいのちの言葉である。学者ではなく幼子が聴くことばであり、聖霊に従順して聴くものである。

 

会見の天幕の奉仕をするのはレビ人であり、レビ人が彼らの咎を負う。これは代々にわたる永遠の掟である。彼らはイスラエルの子らの中にあって相続地を受け継いではならない。(23)

 

  神はひとり子であるイエスに、すべての人の罪咎を負わせられた。咎を負うことが出来る人は罪が無いことが条件である。罪ある者が他人の罪咎を負うことは出来ないのは、その死は自分の罪の結果に過ぎないからである。

 

それは、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは、彼らがイスラエルの子らの中で相続地を受け継いではならない、と彼らに言ったのである。」(24)

 

 神に捧げられたものの十分の一によって、主はレビ人を養われる。これが彼らへの相続地である。彼らは直接神によって、すべての必要を満たされる者である。

 

キリスト者の必要はキリストによって与えられた。完全な救がすでに天に準備され、私たちはその約束の中で生きている。そうして今、永遠に生きるいのちのゴールに向かっているのである。

 

 主はモーセに告げられた。
「あなたはレビ人に告げなければならない。わたしがあなたがたに相続のものとして与えた十分の一をイスラエルの子らから受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として献げなさい。(25~26)

 

神のゆずりの中から、彼らが用いることが出来る分は十分の九である。十分の一は神との関係のためにあり、それを用いて主に応答するのである。
すべてを備えられて生かされる者として、感謝と喜びに溢れて捧げ、主の恵みに応答するのである。

 

これは、打ち場からの穀物や、踏み場からの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物と見なされる。
こうして、あなたがたもまた、イスラエルの子らから受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を献げなさい。その中から主への奉納物を祭司アロンに与えなさい。(27~28)

 

 主にたまわっているすべてのものは、それをもって主と交わる為のものである。みことばに聴きつつ生きることは、何よりの捧げものとなる。
それは、主にたまわったものの何分の一であるかは分からないけれど、此処には絶え間なく主と交わる礼拝が在る。主を離れては何も出来ないからである。

 

あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれの最上の部分で聖別される分から主へのすべての奉納物を献げなさい。(29)

 

主への最上の奉献物は、自分自身の正しさや、賢さや、努力や、心配をわきに置いて、ただ一言「アーメン」と従順することである。それによって、神の完全を受ける備えとなるのである。

 

また、あなたは彼らに言え。あなたがたが、その中からその最上の部分を献げるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、踏み場からの収穫と見なされる。
あなたがたとその家族は、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。(30~31)

 

従順の実は永遠のいのちの備えであり、今日、明日を生きる命の糧ともなる。順境の日々の従順は天の預金のようであって、困難な問題の前でみこころを導く助けとなる。試練の日に聴き従うなら、生きて働く神のことばを体験するのである。

 

「あなたがたが、その最上の部分を献げるとき、そのことで罪責を負うことはない。ただし、イスラエルの子らの聖なるささげ物を汚して、死ぬようなことがあってはならない。」(32)

 

 キリストが献ものとなってくださった時、キリスト者のすべての罪は信仰によって、神の御前に完全に赦された。キリストの信仰の中に在る彼らは聖であり、義であるとされた。

 

キリストが救いのことばであり、完全なあがない主である。キリストの命と引き換えに、完成された救いのみことばは汚されてはならない。
みことばを利用したり、不信仰によって軽んじるとき、人は神の裁きによって、ゲヘナの終わりのない炎に焼かれ続けるとある。神は侮られるような御方ではないのである。


  
ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。(マルコ9:48)

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:5)


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