石ころ

殺してはならない(申命記5章)

 

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。(16)

 

父母を敬うことは、父なる神を敬うときに心から出来るようになる。父母を敬えないのは、人格に対する疑いや、他との比較などによる愛の不満などもあろう。私は子供のうちに両親を亡くしたので、そもそもこの不満は分からない。ただ父母を知りたかった。

 

自然に尊敬できる人とは自分より優れている人に対してである。しかし、仮に優れた親であっても、また、親が良い環境で大切に育てれば育てるほど、その優劣は年齢と共に逆転して行き、優れているものも部分的となり、老いればすべてが逆転する。

それは寿命を全うする中で代々続くことであり、若者も辿る道筋である。それゆえ、神は人格に拠らず、置かれている環境に拠らず「敬え」と命じられている。

 

キリストの十字架の愛に出会うとき愛される満足を知り、キリストの愛に浸されて安息し、自他をそのままで受け入れることが出来るようになる。それがキリストの平安である。

それはみことばを慕い求める愛となり、主に命じられることは喜びとなって、信頼のうちに従順するのである。従順による祝福を経験するからである。

 

みことばを慕い求めて主の愛が満ちると、それまでの人生の傷や失敗や、「なぜ」という怒りが癒やされてしまう。父母にある痛みや苦闘を思いやる愛が生じて、そのまま受け入れ敬うことが出来るようになるのである。

子として親を敬う時アイデンティティを安らがせ、健やかさの中で感謝を育てる。主が備えてくださった自分の中にある良きものを発見し、落ち着いた心は生きる勇気を与えるのだ。

 

律法は誰も完全に行うことは出来ない。そのことに気づくとき、人は救い主を求めて叫ぶのである。

ヨブもキリストを求めて叫んでいる。神が人となって付き添い、罪人を弁護してくださるようにと・・。そうして今、神はその願いを叶えていてくださっている。

神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。
私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。(ヨブ9:32~33)

 

殺してはならない。(17)

 

しかし神は聖絶をお命じになったことに、此処で私は分からなくなった。
主に聴く時を置いて気づかせてくださったことは、愛するものを殺さねばならない神の痛みであった。神は「殺す」ことの苦痛を知り尽くしておられる。

 

義の故に聖さを守るためにそうせざるを得ないとき、神は決して無傷でそれをなさったのではないと知った。
それゆえに、人には「殺すな」と命じられるのである。それはあまりにも深く傷つくことであり、痛みを伴うことだからである。もし、殺めても痛むことさえ無いなら、すでに病んでおり、狂っていて健全ではなくなってしまっているのである。

 

神は、義のために愛するひとり子をたまわるほどに人を愛された。それは正しい人のためだけではなく、罪人さえも愛し滅びる命を惜しんでのことである。罪のゆえに殺されて当然な者を、ただキリストを信じる信仰によってのみ救うためである。

 

「殺すな」と命じられているのは、それは殺す者にも痛みや苦悩をもたらせるものだからである。ただ「聖絶」においては、その従順によってきよめられ神の癒やしが完全に働いて、彼らを守ってくださったであろう。

 

世に在る今、戦争などで祖国や家族を守るためにと殺すことを命じられる時、それは、どれほどの祈りが必要であろう。
祈り祈ってみこころを求めて、時には「殺されるな」とは命じられてないことが、救いとなるかもしれない。

それも一つの殉教の形であり脱出の道となることもあるのだろうかと思う。主に在る者には、世では旅人であり祖国は天にあるのだから・・。


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