研いだばかりの二本の包丁を手にして流しで洗っている時、側に在った何かにぶつかったらしく、その反動の刃先が指に当たった。ぱっくり割れたゴム手と、全身をぞわっと走る痛み。
血に濡れた指にテープを巻きつけつつ、お気に入りのゴム手を惜しむ気持ちも同時進行・・。
それにしても軽く当たっただけなのに、ゴム手があまりに綺麗に切れていたので、わざわざ研ぎ味を試して研ぎ直した成功を、自分の指で確認したことになる。研ぎ澄ましておきながら刃物の扱いを甘く見て、二本同時に洗おうとしたずぼらを反省。
以前バイク事故を起こした時も激しく擦りむいた足の痛みと同時に、無残な状態のシルクのズボンを惜しんだことを思い出した。
その時も同じことを思っていた。
体は時間を掛けたら元に戻るけれど、物は二度と戻らない。それなりに精一杯守ってくれたのだけれど・・。
元に戻る体の仕組みには、どれほどの創造主の知恵と愛が籠められていることだろう。
その仕組みを知ればしるほど、生き物が偶然の産物ではなく、人の思いもつかないほどの知恵によって、造られたものであると聞いたことがある。
体と心の癒やしが生まれながらに備えられている。いのちの主を味わう時が失われないようにと、人の失敗や、勘違いや、無知や、酷使によって傷つけてしまう体が何十万回、いや何億回癒やされていることだろう。
人の体では、癌などが無数に出来ては癒やされていると聞いたことがある。気づく癒しはわずかで、ほとんどは気づくことも無く回復され、癒やされて、寿命を全うすることが出来るように備えられているのだ。
その時間が、キリストに出会うための大切な命だからである。
指はキーを打っても痛まないほどになった。「テープが巻きやすい箇所で良かった」などと失敗を紛らわす奴だけれど・・。
研ぎ味を指で経験す粗忽者