石ころ

姦淫してはならない(申命記5章)

 

姦淫してはならない。
盗んではならない。(18~19)

 

この罪に対する神の基準は、欲望を持って見だけで姦淫の罪であり、他人の物を欲しいと思ったときに罪とある。神の基準に在って、律法を全うして義と認められる人はいない。

 

世の裁判においては想像によって罰せられることは無く、むしろ証拠の無い疑わしきはものは罰せずである。その差は人には真実は見通すことは出来ず、神には魂に在る罪性まで御見通しである違いであろう。

 

罪を思うことと行うことの差は、機会を得たかどうかの差でもあろう。機会を得ずに罪を犯さずに済んだのは、主の予めのお守りのゆえとも言える。

それゆえイエスは、姦淫の女を罰して殺すことを求める者にそれを許さず、彼女を憐れんで生かされたのであろう。

 

この二つの罪の出所は似ていて、どちらも魂の飢え渇きから出ている。此処で主は真摯に神を求める者が、戒めに出会うことによって、救い主を求めるように導かれる。

罪の無いキリストだけが、律法を完全に行うことが出来るのであり、事実、キリストが律法を完全に守り行って、すべての人の身代わりとなって律法を完了してくださった。

 

あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。(20)

 

この罪を犯す心には魂の貧困があり、愛の飢え渇きによって人を妬んだり、羨んだする苦々しい思いによって、真実が捻じ曲げられ、罪の願望による偽りが混ぜ込まれるのである。

 

主の愛に満たされて聖霊により霊、魂が充実しているなら、他人の秘密を知ったとき、その重荷を持って御前に静まり、執り成しの祈りとなる。

その後そのまま御前に捧げてすべてを忘れる。それらを抱き締めるなら、その罪は聞いた者の魂の中で膨らんで行き、自分自身を傷つけるからである。

 

執り成しはうちに居られるキリストのご性質であり、キリストの十字架の血潮によって罪を覆われた経験が、祈りに拠って重荷からの解放となり、平安を得るのである。キリストを通った罪は、すべて解決しているからである。


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