「孤独死」という言葉は「異常な不幸」という感じで語られるが、私はそれが特に不幸なこととは思わない。
歳を取って人が死ぬことは自然なことであり、生まれた限り一度は死ぬことは誰でもわかりきっている。
気楽に夫婦で暮らしていていればどちらかが先立つことも当然であり、一緒に死ぬことは不自然な死である。
だから、残された者がひとり暮らしになるのは流れであって、その行き着く先が孤独死であっても何ら異常ではない。
お正月に帰郷していた長男夫婦が話しくれたことがあった。部下の一人が両親の介護のために仕事を辞めなければならない・・という話しだった。
私は「そんなことがあってはならない」と思った。それは自然なことではない。
両親の介護が行き届かなくて死んだとしても、それは歳を取って死ぬという自然なことであるけれど、親のために子の人生が犠牲にされることは異常なことである。
「介護休暇もあるので、それを取るように勧めているが両親なので大変だろう」と話していた。
「でもね、」と彼らは続けた。「介護休暇も何回かに分けて取ることも出来るし、全額ではないけれどその間も給料はでるから・・」と付け加えた言葉は、私に向けて「備えはあるよ」というの二人の優しさだと受け取った。
孤独死は悲惨な骸を目にすることになる。しかし、それは必ず滅びる肉体のことに過ぎず、そんなものはしょせん塵に帰るものである。一時の感情は痛むけれど続く介護の苦労に比べれば、介護される者にもする者にもむしろ救いであろう・・。
親族一同に見守られても死は孤独なのである。人は一人で産まれてきて一人で死ぬ者であって、誰もそれを共有することはできない。
しかし、唯一キリスト者は信じたときからイエス・キリストの永遠の備えの中にあり、骸がどの様であろうとも霊に置いてはすでに神の元にあるのだから、「平安があるように」と主は言われる。
恐れるべきは腐乱した骸を見られること見ることではない。そのような肉体の死ではない。死後にくる霊の裁きの方である。
肉体はどんな辛い病や苦痛を負っても100年もすれば塵に帰ってケリがつくが、霊の方は永遠の問題なのである。
恐れるべきは死後の永遠に続く居場所。それこそ生きている間に選ぶべき最も重大な課題なのである。誰でもその時が明日ではないという保証はないのだから・・。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
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