石ころ

産みの苦しみ



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 8年前に牧師から頂いて居た洗礼申し込みの用紙を、突然土曜の夜に昨夜引っ張り出して来て「記入はコレでよいのか?」と主人が尋ねてきた。
正直、私はその成り行きに呆然として、どう反応して良いのかわからなかった。

昨年末から激しい霊の戦いがあって、外目にはなすべきことをいつも通りに行っていたけれど、心は凍り付いたままだったから・・。
苦しみがいのちの生まれるためであると分かっていたなら、耐え方も違うだろうけれど、霊にあってはまだ私の経験のない事であって、ただ深い闇に閉ざされ、脱出の道を探してもがいていた・・。

 信仰の悩み苦しみは、みことばによってのみ耐える事が出来ると、砂を噛むようであっても感情には寄らず聖書を読み続けていた。
確かにみことばは、その日その日をマナのように養って導いていただいた。

民数記22章から、
そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
この時、今動くと死ぬのだと教わった。

2014年、例年なら胸を躍らせて記す真っ新な日記の見開きに、無感情なままに示されたみことばを書き込んだ。

レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。(レビ記17:8)
すべてが終わってその意味を知った。「実を結んでいた」それは主が成すのだと・・。

 教会の坂道を主人が先立って登って行く。
私が吉野を去って、やがて主人も後に行かなくなってしまった8年前にもどって・・二人で登って行く。
「この桜の支えはまだ大丈夫そうだ・・」なんて話しつつ・・。

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