石ころ

神を喜ぶ(レビ記9章)

 

主の前でいけにえとするために、交わりのいけにえのための雄牛と雄羊を、また油を混ぜた穀物のささげ物を取りなさい。それは、今日、主があなたがたに現れるからである。」
そこで彼らは、モーセが命じたものを会見の天幕の前に連れて来た。全会衆は近づいて来て、主の前に立った。(4~5)

 

 罪をあがなってきよめるための動物が、いけにえとして捧げられ、焼かれて立ち昇る煙を見た民は、安心して主の現れを待ち望むことができたであろう。罪に怯えつつ、聖なる神を喜ぶことはできないのである。

 

モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、
火が主の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。(23~24)

 

キリストによる聖霊と火のバプテスマは、うちに在る古いものを焼き尽くす火である。心も腹の中も、頭のてっぺんから足の先まで焼き尽くされ、死を経て新しくされた時、自分の何かを恐れることはなく、何かに頼ることも無く、聖霊に聴くままにみことばを運ぶ足となる。

 

そのとき主に委ねて安息していられるのは、人の弱さを知り尽くすキリストに拠ることであり、いのちをたまわるほどの愛を経験したからであって、失敗も間違いもすべてを知られて、なを少しも変わらない関係に在るからだ。

 

 エデンの園で蛇は「神のようになる」と誘惑をした。人は神のように完全でありたいという願いを持ち続けていて、賢さへの渇望は他人と比べることによって、平安を得ようとする。

 

しかし「神のようになる」という神の御姿は、神であるキリストが、神のありようを捨てて被造物である人となり、十字架の嘲りと、罵りと、痛みと、黄泉に下る死を通られた事実である。


それほどに、人を愛して父なる神のみこころを全うされ、その姿をもって「神のようになる」足跡を世に残された。

 

しかし、キリスト者は絶え間なく、キリストのようではないことを思い知り続ける。何もしなければ気づかないで済む傲慢も、動けば深みに沈んでいた罪が沸きたつ経験をするのである。

 

それでも眠れぬ夜に床に座して、ありのままを主に訴えるとき安らぎを得るのは、すでに知られており、すでに赦されているからである。それは十字架を知っているからである。


何万回間違っても、何万回失敗をしても、主の愛は微塵も変わらぬ関係に居るからである。それがキリストの血によってあがなわれた者の確信である。

そのような夜は、「主よ。それでも私はあなたを知らせ続けます。」と告白し、「サタンよ。それでも私はキリストを指し示し続ける」と宣言しておく。

 

それが出来るのは、神にはどんなことでもお出来になることを知っているからである。そう、私を打つて止めさせることなど、いとも簡単であり、また、愚か者に知恵を与え、愛の無い者にキリストの愛を注いで、溢れさせてくださるという望みがあるのだ。

 

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。(Ⅰテサロニケ5:23)


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