石ころ

祭司は恐れず(レビ記8章)

 

 主はモーセにこう告げられた。
「アロンと、彼とともにいるその子らを連れ、装束、注ぎの油、罪のきよめのささげ物の雄牛、二匹の雄羊、種なしパンのかごを取り、全会衆を会見の天幕の入り口に集めよ。」(1~3)

 

任職式は、集められた民の前で犠牲の動物を捧げられ行われた。すべての人にアロンとその子らが、神に選ばれた祭司であることを知らせた。
それは神に逆らってアロンを非難することがないようにするためである。それはイスラエルの守りのためである。

 

 キリストの十字架の死と復活によって、うちに臨在してくださる聖霊の助けにより、キリスト者は祭司として主のみこころを行う者である。不完全な自分を恐れて、会衆の前に立たされることから尻込みしてはならないのだ。

 

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:33~34)

 

義の衣は主が備えて着せてくださるものである。他人が与える評判や資格ではなく、自分の善行や賢さによるものでもない。ただ従順により神に仕えるために着せられるものである。働きのための必要のすべてを、選びの神がどうして備えてくださらないことなどあろうか。

 

人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。(マルコ13:11)

 

信仰があるから従うのではなく、従うことが信仰であり、知っているから語るのではなく、語る者に主は必要を満たしてくださるのである。
保証も資格も神のご計画のうちにあり、それは私たちを知り尽くす主によって、より頼む者に完全に備えられてあるのだ。

わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。(へブル10:38)

 


 残されている時間がそれほど多くはない今、キリスト者の愛に拠る行動は、キリストを信じないすべての人に、死後ゲヘナで永遠の滅びが待っていることを知らせることであり、救いの時は命のある間、今しかないことを知らせるのである。

 

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:12)

 

それは、生きている今キリストを信じるなら、ただ、信仰によって無条件の神の愛と、永遠のいのちをたまわることを伝えて、共にキリストの御救いを分かち合うためなのである。

世を愛するキリストが十字架で流してくださった聖い血潮は、キリストを無視して滅びを選ぶことで無駄になってしまうのである。これほど取り返しのつかないことはないのだ。

 

(キリストを)信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。(マルコ16:16)


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