イエスさまの十字架の贖いによって新しく生まれたキリスト者は、イエスさまの準備してくださった真っ新の革袋で熟成され成長してゆく。
そう、それは今まで見たことも聞いたこともない戒め、キリストによる福音という布団に包まれることである。
ただ、この新しい革袋を選択するには、マタイのように「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」(ルカ5:28)この行いが必要である。
何もかもは何もかもであって今日までの罪悪も、良い行いもそれらのすべてを捨ててイエスさまに行くのである。
罪は繰り返し思い出されまつわりつくけれども、イエスさまの前に捨てたのだから、もうそれらに煩わされる必要はない。このことは、きちんと十字架の知識を持つことで解決する。
しかし、「良い行い」これがやっかいで、それ故にパリサイ人も律法学者も救いから漏れたのである。
今日まで営々と築いてきた良い行いという勲章を捨てて、ただの罪人としてイエスさまの救いを求めるには、キリストのへりくだりを頂かなければできないことだから・・。
これこそ、主に選ばれたことの証明なのだと思う。
今日のメッセージで心に深く刻まれたひとこと・・。
「古いものを味わい、どっぷり浸かってそれに酔いしれている人は、『古いものは良い』というひとことで新しい革袋を退けるのです。その人に対しても私たちはただ、『新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。』と語るだけです。」
染みるような悲しみとともに、キリストの忍耐を共有するべきなのだと心に覚えさせられた。
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