主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。
それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」(8~9)
竈の煤もモーセの杖も神が用いた道具であり、その実態はみことばである。神の口から発したことばの力である。みことばに逆らう者は呪われ、喜んで聞き従う者には永遠のいのちを賜る。
主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(コリント16:22~23)
それゆえ私たちは、救いを得させる神のことばを伝えて止めない。神が御子を十字架につけるほどに、愛して居られる人のために。
神は人を祝福するために御子を遣わしてくださった。おめおめとサタンの滅びに持ち去られるいのちがないように。
呪法師たちは、腫れもののためにモーセの前に立てなかった。腫れものが呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。(11)
この呪法師の姿を見ても悟らないファラオを、なんと愚かな・・と思うが、今もこの世は同じようなことを繰り返している。問題が起こる度に目の前の一つひとつにかまけて、永遠のいのちのために猶予されている時を浪費し、神に逆らって災いを呼び込んでいる。
もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。(マタイ5:30)
キリストがご自身の命と引き換えにして備えてくださった救いも、すべての権威をもっておられる神にへりくだることがなければ、悪い心のままにロックされたファラオのようになる。彼が欲に捕らえられて奴隷に執着したからである。
世の問題は死に至るまで追って来て、いよいよ困難な問題に直面して時間切れとなる。そう、人は誰も死を解決出来ないからである。
ファラオは何をもって、災いが落ち着く度に一件落着と思ったのだろうか。彼には何度繰り返しても問題の全体が見えなかった。そう、神の力を甘く見て悟ることができなかった。
今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。(14)
ファラオの頑なな心を通して神が10の災いを準備されたのは、まず、ファラオとエジプトが創造主なる神の存在を悟るためであり、神の民が神の大いなる御わざを子孫に伝えて、従順して祝福の中を歩み、神の栄光を現わすためである。
実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。
しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(15~16)
ファラオが神を無視することは出来ても、神は彼を無視することはない。信じる者も信じない者をも神は見ておられ、彼らの心にあることを用いて計画を遂行される。常にすべての命は神の御手にある。神はすべての命に目的をもって生かしておられるからである。
祝福を受ける者は、神の備えのキリストに身を避ける。キリストのうちに留まって働くとき、神の良きご計画をまっとうする者とされる。
しかし、神を無視してみことばを軽んじるなら、ファラオの経験を繰り返すことによって神の力のもとに滅びる。
キリストは十字架刑によって人の罪の呪いをすべて負って、神の御前に罪の代価を支払てくださった。ただ一つのいのちへの道は此処に在る。
すでに罪への処罰は終わっている。キリストはいのちの恵みを与えるために、神に遣わされて人の世に生まれ、身代わりの十字架刑によって死んでくださったのである。このクリスマスのストーリィは、今や世界中で知られている。