石ころ

使徒の働き ⑤ (4章)

 

ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。(8.10)

 

ペテロは、キリストの御名に在る権威によって、生まれつき足の不自由だった人が立ったのだと、経験したままに語るだけであり、学問も才能も、誇張も人の考えを探ることも不要なのだ。

どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。(マタイ10:19)

 

「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせた。」と彼らの罪を真っ直ぐに伝えることが、悔い改めに導いて救いをもたらせるのである。

 

「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった」というのはこの方のことです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(11~12)

 

聖霊に導かれて語ることばは聴いたままに、少しの斟酌もなく明瞭でなければならない。人間的な気遣いのパン種を混ぜ込んでは、救われるべき御名が曖昧になり、救いには至らないからである。

 

彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。(13~14)

 

私たちがイエスの弟子であることが誰にでも分かる時、其処には聖霊の働きがある。
たとえ時が良くても悪くても、自分に何一つ誇れるものが無くても、聖霊がキリストのわざを現わさせてくださる望みがあるのだ。

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

 

彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。(16)

 

誰にも否定できない証しを備えてくださるのは、それを見聞きする人々の救いのためであるが、不信仰な者には篩いともなる。

 

「しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」
そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と(脅しておこう2017)(17~18)

 

人の権威や権力は、気づかぬままにサタンに与して、不都合な神の証をもみ消そうとする。それは彼らがサタンの脅しの中にあるからである。
しかし、聖霊に導かれる者が何によっても脅されることは無いのは、すでにキリストの勝利をうちに持っているからである。

 

ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。(19)

 

人の賢さをもって神に逆らう理屈は、実に馬鹿馬鹿しいもので、ちょっと考えればそれが、すでに破綻していることに気づきそうなものである。

 

「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。(20~21)

 

聖霊によって主を証する者には、反証も反論もできないことばを準備してくださる。神は選んだ者を、十字架で罪の対価を支払って救い出し、忍耐をもって役立つまでに育ててくださる。そこにイエスさまとの甘い交わりの歴史がある。
それゆえ、使徒たちは喜びと誇りをもって殉教するほどに、神を愛して生きるようになるのだ。

 

普通の人々が目の前に癒された人を見て、使徒からイエスの復活を聞いて、そのまま信じた時、立派な宗教指導者たちには一人もその事実が見えず、イエスの復活の証も聞えずに救いから漏れたのは、盲人が盲人の手引きをしているからである。

 

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。(29)

 

自分の悟りを持たず、積み上げた学もない者は、ただ、聖霊に自分自身を差し出して支配して頂くことを求める。喜んで心を全開にしてお迎えし、祝宴を開いてみことばのパンを食し、日々喜々と聴き入るのである。ただ、ただ、みことばのゆえに救われた者だからである。

 

彼らは聴いた言葉を、口移しのように語って導かれるままに出て行く、まるで母を追う幼子のように・・、そこは聖霊の独擅場のようである。

 

「御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(30~31)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事