死人に触れる者は、それがどの人のものであれ、七日間汚れる。(11)
死人、すなわち死んだ人間のたましいに触れ、身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は汚れを除く水を振りかけられていないので汚れていて、その者の中になお汚れがあるからである。(13)
人に死が入ったのは神の警告を聴かず、アダムが善悪知識の実を食べたからである。神は人を死ぬ者として創造されたのではない。
死はアダムが神のことばを軽んじた罪の結果であり、神の姿として完全に造られた者が、その時から罪に汚れた不完全な者となった。衰えゆく体をもつ限りある命となったのである。
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように(へブル9:27)
それゆえ誰であれ死に触れるとき、その罪の汚れをきよめなければ、聖なる神に近づくことが出来ないのであった。
しかしそれは、繰り返し繰り返し死にふれるたびに、きよめの儀式を行っても、神に近づくには不完全なのである。
人に入った死の汚れを完全にあがなうために、神はイエス・キリストを世に遣わした。罪に拠る汚れから来る、死から救い出すためである。キリストは十字架の上で、すべての人の罪の身代わりとなって、人類が負い続けている死の呪いから、解放してくださったのである。
この事実を信じる者は肉体の死を経て、霊は天に召されてキリストと同じ姿にをたまわり、御許で二度と死の無い永遠を生きるのである。
キリストの聖い血潮が捧げられたとき、人のすべての罪が、神の御前にあがなわれたからである。
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(ピリピ3:21)
そうして、今やキリスト者のうちに、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊の三位一体の神が、共にいてくださるほどに、近しい者としてくださったのである。これほどの奇跡を、キリストのあがないを受けた者は、皆たまわっているのである。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」(Ⅰコリント15:54)
キリストが十字架で人の罪をあがなって死に、墓に葬られ、黄泉に下り、三日目に墓よりよみがり、500人以上の弟子の前で天に昇られた。キリストのあがないを信じる人は、キリスト信仰によって義とされてあり、神のさばきを免れて、罪の呪いである死に勝利している。
彼らは、キリストの御わざの故に、永遠のいのちを得ているからである。彼らの死は晴れがましくもキリストが待ち受ける、パラダイスへの聖なるゴールインなのである。