石ころ

謙遜




謙遜という言葉に引っかかる。
謙遜とはそもそも上位の者のみがとれる態度だと思う。常に下位にある者はそれ以上にへりくだる余地を持っていない。
謙遜に振る舞う人は、自分が相手に対して上位にあることを、あらかじめ心得ているということである。

物乞いがへりくだって乞うことはない。哀願する者がへりくだって願うことはない。すでにへりくだる余地がないからである。
だから、癒された盲人がパリサイ人に話す言葉は、自動的に高ぶった言葉とされてしまう。
「お前は罪の中に生まれながら、私に教えてようとするのか」此処でへりくだれるのはパリサイ人だけである。盲人にはその余地がないからである。

地に伏す者はそれ以上に低くなることはできない。低くなるのは立っている者である。
謙遜とは能力や功績を持っている者の手段である。何も無い者は謙遜さえない。
私には謙遜は無理である。

しかし、主の御前に謙遜であることはできる。
それは主はそこまで謙遜であられるということだ。

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コメント一覧

ムベ
コメントをありがとうございます
本心では、謙遜の余地もない自分に、
幾らかの小気味良さを感じてもいます。

でも、地に蠢いているような私の足を、
主が洗ってくださって居ることに気付いた時、
御前で居直ることはだけは、できなくなりました。

はい、私たちの希望は主の全能の力にありますね。
殊更に頑張らなくても・・。

電気屋
「地に伏す者はそれ以上に低くなることはできない。」

なるほど納得です。
どうも謙遜で有りたいと思いながらうまくできないし、何より似合わない感じがしていましたが、所詮塵から取られた者には無理があると、、
せいぜい「謙遜そう」に振る舞ってみる程度(涙)

イエスを真似る事も、イエスに学ぶ事すら私には不可能、所詮塵に住む者でしたから、

所がいまや、主が「国籍は天にある」と宣言されるのでその全能の力を信じて頂きます。
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