石ころ

一つ (ヨハネ17章)




それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。(ヨハネ17:21~22)


 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(Ⅰコリント12:27)とある。
それは、葡萄の房のように、粒ぞろいであるはずがない。体の器官は、それぞれに役割も大きさも形も違うのが当然であるから。同じだったら体は成り立たない。

大きくて幅を利かせている器官にちょっと忍耐したり、小さな器官を気遣ったり、少し成長が遅れている器官はみんなで補ったりして体はスムーズに働くのである。
ましてキリストの体ならば、聖霊の備えによって結ばれて、共に同じ主に抱かれて完成されて行くだろう。

 互いの働きが他を養うことはあっても、目が口に負けまいとするわけはなく、口が耳に負けないとするわけもない。絶えず互いに助けられ互いを喜んで居るのである。
それぞれ主に与えられたタラントを精一杯用いて働きつつ・・。

自分の役割に安息しない器官があるだろうか、他の器官を見下す器官があるだろうか・・、無くても良いものがあるだろうか・・。それは、どの器官にとっても自身の体であるのだから。

もし、粒ぞろいを求めるなら、大きな粒は気を使って自分の働きが出来ないだろうし、小さな粒は背伸びをしなければならず、成長が遅れたものは切り捨てて整えなければならない。
主はそんなふうにはされない。主はそれぞれの成長に応じて待ちつつ、一粒ずつ見守り育てることができるお方である。

工場の規格品を量産するようなことはなさらない。みなたった一個、非常に個性的に造られた作品であるから・・。
丁寧に造られた体を知る時、一つひとつの器官はどれほど喜んでいることだろう。

 キリストの体の器官は、働きも個性もそれぞれがまったく違っていて、それでいてキリストの体として一つなのである。
互いを完全に理解することは決してない。なぜなら役割が違うからである、造りが違うからである。ただ、キリストの体に治まるとき完全に一つなのである。

切り離されては生きられないものであるから、互いをいたわり、一器官の喜びは互いの血流を良くして元気になるし、一器官が病めばすべての器官がしんどくなるのである。
体は絶えず変化しつつ成長し成熟して行く、生きているのだから・・。だから時に待つ、だから時に忍耐もする。同じキリストの希望があるから・・。


そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。(ヨハネ17:26)

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事