さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。(マルコ9:14)
天を見た弟子と、地で議論している弟子が居る。このことは聖書に在る事実。彼らは、口をきけなくする霊を追い出すことができなくて、群衆の中で律法学者と議論していた。
弟子に出来ないと知った父親は、イエスさまに「おできるものなら・・」と言う。師は弟子によって量られる。
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」(マルコ9:19)
弟子が議論によって、その場をやり過ごそうとしていることをイエスさまは嘆かれる。主を待つ事が大切なのである。それが弟子の祈りである。
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:23~24)
この、「信じる者にはどんなことでもできる」は、この時弟子にも言われたことである。このことに挑戦するペテロを、主は喜ばれたのだ。
「不信仰な私をお助けください」それは何時もある叫び、あなたを経験することができますようにと。
イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。(マルコ9:25~26)
人々は一目で少年は死んだと言う。主に信頼する者は人々の声に耳を貸さず、目の前の出来事によって失望せず、信仰生活にも主に望みを絶やさない者である。群衆との違いがそこにある。この経験を重ねる度に、主を知る恵みの深みへと入って行くのだ。
しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。(マルコ9:27)
イエスさまのすべてのわざは、祈りによって御父から出ていることである。弟子も地にあって、すべての問題を祈りによって天からの救いをたまわる者である。
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