みことばが耳に痛いことがある。それでも聴くのは、主が必要を満たしてくださることを知って居るからである。すべてを主に依存した上で聴く、
「あなたはこのことを成就させてくださいます。」と・・。聴いた言葉は主が成し遂げさせてくださるから、聴き続ける。
「イエスさま」から始まるけれど、実は、より親しい聖霊に話している。恐れを訴えることもあり、感情的な嘆きや憤りをぶちまけることもある。気落ちしたり、悲しんだりも・・。その方は私を知り尽くしておられるので言葉選びなどはしない。
訴えは完全に知られたことがわかるから、人に向かって愚痴をこぼす必要は無くなる。まあ、人に言う前に聖霊に話してしまったことで、すでに解決しているから・・。
聖霊は慰めをくださることがあるけれど、大概、みことばをピシャリと返される。その瞬間、吹き出してしまうこともある。「そう来たか!」って・・、
心は一転する。胸に詰まっていたものは一気に焼き尽くされ、心は空っぽにされて動じることのないみことばだけが残される。みことばは主の臨在なので完成なのだ。
まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は何時までも主の家に住まいましょう。(詩編23)
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