シュアハ人ビルダデが答えて言った。
主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。
その軍勢の数ほどのものがほかにあろうか。その光に照らされないものがだれかいようか。
人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。(25:1~4)
朗々と神を説くように見えるが、それは誰に教えているのか。彼は裁判官なのか・・、彼は大切なことを忘れている。
ヨブの無残に打たれた姿を目にした時、友として側に居たはずであった。それがヨブの言葉に苛立ち始めたのは、期待した謝罪を聞かなかったからであろう。
しかし、ヨブは彼らに何をしたのだろう。ヨブは人にどんな罪を犯したのであろう。神に向かっての罪は神とヨブの問題であり、彼らの裁くことではない。
ヨブが謝ろうとしないことは間違っていない。そもそもヨブは、サタンの讒言によってこうなったに過ぎず、神はヨブを「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている」と言われたのだ。
人は見た目ですべてを判断する。それゆえエバは蛇に誘惑されたのである。もし、ヨブが姑息な手段を用いて宮殿に座っていたとしたら、彼らはヨブは敬っただろう。
目は神の創造された天地の美しいものを見て、誰でも、ただで慰めや励ましを受けることができる素晴らしい器官である。
しかし、それはサタンの道具ともなるのだ。霊の目が開かれて、神様がごらんになるように見ることが出来るよう、祈る必要がある器官である。また、目の欲は信仰の大きな罠である。
ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない。
ましてうじである人間、虫けらの人の子はなおさらである。(25:5~6)
いいえ。神の目に人は高価で貴いのである。それゆえ御子を遣わし聖い命の代価をもって、人が負いきれない罪の負債を支払って、子としてくださったのだ。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(イザヤ43:4)
ヨブは答えて言った。
あなたは無力な者をどのようにして助けたのか。力のない腕をどのようにして救ったのか。
知恵のない者をどのようにしていさめ、豊かなすぐれた知性を示したのか。
あなたはだれに対してことばを告げているのか。だれの息があなたから出たのか。(26:1~4)
友さえも助けることがない言葉は、神の与えた知性を用いたものなのか。その言葉は誰の息から出ているのか・・それは聖霊が導く神のことばではない。
人が人を裁く言葉とは何だろう。神が人を裁かれるのは罪の大小には拠らず、罪の有無なのである。ヨブにも罪はあろう、友である彼らと同じである。ただ見た目によって悔い改めを迫ることは、サタンの罠である。
ヨブは彼らの言葉に、とり合えず謝ったりはしない。ヨブは彼らに何もしていないのだから・・。ヨブが真の悔い改めに導かれるのは、神の愛に出会った時である。
みことばと、人から出た宗教の違いはあがないによる。みことばには、キリストが血をもって罪の代価が支払われた愛の十字架が存在するのだ。
人の宗教の教えは、罪の救いには指一本触れることはない。所詮は他人事であり、それを聞かされても、余計に絶望するばかりなのである。その言葉には神の息は宿っていない。
みことばによって神の愛に触れられた時は、罪の心が砕かれて新しく生まれ変わるのである。人格が変えられてみことに従順し、喜びと感謝によって生きるようになるのだ。その力は神の愛に拠ることである。