石ころ

主の食べもの、人の飲みもの(2020.5.10.デボーション)

 

主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。(ヨハネ4:3~4)

 

礼拝するべきキリストを求めて、渇いている一人の女のためであり、そこから広がるサマリヤの救いのためであった。

イエスさまは、「私は清く罪は無い」という人にではなく、真理に渇き罪の重荷を負って、痛む者に来てくださるお方である。医者が必要なのは病人であり、あがない主が必要なのは罪人だからである。

 

それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。(4:5~7)

 

ユダヤ人は決して声をかけない人種、また夫を5人も取り換えた女に対して、主はへりくだり親しみをもって近づいてくださる。


姦淫の女が捕らえられて、イエスの前に引かれて来た時も、脅さないように低くしゃがんで赦しの声をかけられた。罪人に対する主の繊細なお取り扱いは、神の愛はそういうものだと教えてくださっている。

 

罪を持つ人間は、罪を糾弾することで自分の正しさを証明しようとするが、神は罪の無いお方ゆえに、何処までも憐みに満ちて惜しげなく顧みてくださる。
それができるのは、十字架ですべての罪の代価を支払ってくださる、イエスさまだけであるが・・。

 

そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──

 

イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(ヨハネ4:9~10)

 

イエスさまは十字架の上で渇きに苦しまれた。その御救いによって、私たちはもう渇くことが無くなったのだ。イエスさまが与えてくださったいのちの水には、貴い命の対価が支払われている。

 

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(ヨハネ4:13~15)

 

イエスさまは誰をも侮ること無く、惜しむことなく、聴く者に真理を教えてくださる。どんなに無学であっても、主を知りたいと願う者には、霊の耳を開いて語り掛けてくださるので、時に相応しくみことばを理解することができる。
なぜなら、神は霊だから霊によって知るのである。

 

女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(ヨハネ4:19~20)

 

彼女は知りたかったのだ。本当に礼拝するべき所と、礼拝するべきお方によって、安らぎを得たかったのだ。
漫然とした習わし通りの信仰に在って、疑問や迷いを持つようになるのは聖霊の導きである。直接、みことばを主に聴くことはキリスト者の特権であり、少しも恐れる必要はないことである。

 

イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21~24)

 

彼女は渇いてキリストを待っていた。このためにイエスさまはサマリヤを通ってくださったのである。
真の礼拝者の資格は、霊とまことによって礼拝することであり、他に何も付け足さないことを知った。

 

女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(ヨハネ4:25~26)

 

たった一人の、それも罪深い女が待っていることを心に掛けてくださるイエスさま。彼女の願いはすべて叶えられた。
このような喜びを得たなら、誰でも走り出すだろう。喜びを知らせたくて・・、もう要らなくなった水がめなんか放り出して・・、人目を避けていたことなどもすっかり忘れて・・。

 

女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:28~32)

 

一人の女の救いがイエスさまの食べ物となった。救いの実はイエスさまの食べ物。渇くことのないいのちの水をたまわった私たちが、どうか豊かに実を結ぶいちじくでありますように。


 
イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ)4:34)


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