石ころ

「彼に誉れを与えよう」


 信仰を持ってイエスさまに依り頼んで生きていても、世で苦労の種を負うことがある。いや、むしろ信仰を持っている人の方が多くの問題を抱えているかも知れない。私たちはイエスさまの御足跡を辿っているのだもの。

理不尽な苦労を背負っておられるお姿を見るとき、心が痛むのは世の人に対するのと同じだけれど、ひとつ決定的に違うことがある。
キリスト者の苦しみはイエスさまが心配して居てくださるから、そこには主の備えがある。

私たちがその問題を主の御手にお任せするなら、主が共に重荷を負ってくださる。私たちが信仰によって折々に必死の選択をするとき、ドキドキするその勝負に勝たせて、それまでの苦労に報いてくださる。そのようにして主にお会いすることは、なんという幸いだろう。
それこそ、永遠のいのちに導く道すがらだから・・。

何の働きもない者に主の一方的な憐れみによって、人の前に、また家族の前で誉れを与えてくださる。
だからこそ私たちは、ただ、ただ、御名をほめたたえる!

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。(詩編91:15)




 思い通りに成ったことが喜びなのではない。人の思い通りの危うさを知っているから・・。
経験したイエスさまの愛が嬉しいのだ。沢山の涙がある時、イエスさまとの沢山の交わりがあったから・・。
私たちを覚えてくださったことが嬉しくて、それは、この手で主に触れたような感覚、苦労の数だけ触れていたのだ。

私は沢山の悲しみを味わったけれど、その何倍もの喜びや笑いを頂いた。そんな経験から苦しみの時の過ごし方を学んできた。
苦しみの中で、主をどのように呼び求めるのか、苦しみの時に何を喜び、何を見つめて安息するのか・・それを知る。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)


苦労や悲しみの中で、イエスさまは「それをわたしに任せなさい。」って、「その悲しみを喜びに変えてあげよう。」って言ってくださる。
「その苦労をわたしも負ってあげよう」と言ってくださる。
やがて私たちは、その日々を振り返って御名をほめたたえ、主を喜ぶ。ハレルヤ、ハレルヤと・・。

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