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石ころ

メッセージを聞いて 5月18日


良く準備されたメッセージに恵まれて、その上、いつも近くの駅まで送って下さる姉妹が今日はお休みでsaltさんに送って頂いた。こんな時は本当に「勿体ない」と思う。このように扱って下さる神様になんと言って良いか分からない感謝を覚える。

年を取って何の役にも立たなくなっても、神の熱心によって導かれ、私なりにだけど成長させていただける恵みに驚く。なぜなのか分からないけれど、私には確かに必要なのだから、厳粛な思いで、厚かましくも与えられる恵みを受けよう。

saltさんは「~時間聖書を読みます」とか「祈ります」なんて絶対言われないけれど、何かの拍子にその熱心さが現れて、メッセージがどのように準備されているのか教えられる。

 人間の型どおりの宮詣、形式的な礼拝はイエスさまを怒らせる。日常と切り離されて、互いに妥協しあい、誤魔化しあって神様そっちのけの宗教儀式。
3日後に宮の真ん中に居られた少年イエスさまを理解する者はいない。それでもイエスさまは、両親の家に帰られて30年間仕えて下さった。イエスさまの謙遜は今も変わらない。
だから・・。

私の家のど真ん中に神殿はあり、そこに日常があり、飲んだり食べたり、笑ったり泣いたり喜んだり、時には怒ったりしている。今、「家」も「神殿」も十字架の上にあってひとつであるから、聖さは私の霊の中にありすべてをイエスの十字架の前に運ぶ。それはもう、分離できないように、私の罪も弱さも愚かさもイエスさまによって受け入れられているのだと思う。

 教会の礼拝を思うとき、以前ウオッチマン・ニーの「キリスト者の標準」を読んでいて、なぜか、本の内容の他に、私に衝撃的に強く示されたこと「お前だけでは使えない。わたしは教会を用いるのだから。」との言葉を思い出した。「私が・・」「私は・・」とばかりに断食をし、トラクトを配布し、ひとり夢中で主を求めていた時だった。

それは私の行いのすべてを否定されたことだけれど、なぜか、素晴らしい旅をしてきたような満足があり平安と安らぎがあった。それは今も私の深いどこかで続いている。
その時、心に叩き込まれたこと。主は、私じゃない教会を求めて居られる。だから、教会で共に主を味わいたい。共に成長したい。共に礼拝したい。

「いつの時も正しさのキーワードは「わたしを覚えて行う」(Ⅰコリント11:24)であり、間違いのキーワードは「めいめい我先に」(Ⅰコリント11:21)です。」メッセージより

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コメント一覧

石ころ
本当にお世話になっています。
イエスさまが一つのことを誉めてくださっているように思います。
「もっと主を知りたい。」と、それだけを願ってカナン教会を選んだことです。
Salt
喜んで送らせてもらってますので、気になさらないでください。

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