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石ころ

持ち去るサタン



 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。(マタイ4:15)

 みことばを聞いてどんなに感動したとしても、サタンはあっという間に持ち去ってしまうという。素晴らしい主の癒しを受けても、サタンはその記憶を曖昧にして持ち去ってしまう。
信仰、主への信頼の成長のためにも聖霊によってみことばを思い起こさせ、絶えず主に繋いで頂かなくてはならないのだけれど・・。

あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。・・・
神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヘブル4:2b、7)


繰り返し、みことばを聞き続け御わざを経験し続けても、ざるで水をすくうようにサタンに持ち去られては何の実も結べない。それは本当に悔しいことだから、みことばは聞きっぱなしにしてはならない。

でも、みことばを行うと言う時、「私に何が出来るのだろうか」と躊躇してしまう。
けれども、主は私を知り尽くしておられ御真実であるから、意志と勇気をもって恐れずに「なさせてください」と願うことだ・・。

祭司の足が水に浸されないと何も起こらない。しかしすべてを備え、成させてくださるのは主なのだから、おめおめとサタンに持ち去られるまでに、生きて働くみことばをリアルに現させて頂きたいと祈り求めよう。
今朝、姉妹と主を礼拝しているとき、一緒に読んでいる聖書からそんなことを教わった。

箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・
上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。(ヨシュア3:15~16)

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コメント一覧

石ころ
コメント感謝します
エシュコルさんのおっしゃることはよく分かります。
このことをお伝えするのは難しいのですが・・

ただ、主は私たちのすべてに関心を持っていてくださると思っています。些細なことにも主を感じることがあります。

すべてを導きに従うなんてなんだか窮屈みたいですが、
主に縛られようとするとき、自分から解放されますから、結局はよほど自由です。



エシュコル
http://yaplog.jp/sweetwordcanon
>私は「何を成すべきか」それを知らないので、主のお導きがないかぎり何もしません。迫りが無いとこれ幸いと、何時までものんびりを楽しんでいます

だからと云って食事を何にしたら良いかとか、右に左にまっすぐに、それとも後退かの様な事はナンセンスですけど、その辺りが難しい部分がありますよね。
石ころ
エシュコルさん コメント感謝です。
「すべては神より発し、神によって成り、神に至る。」これが原則だと思っています。
「自分で信じて御わざを成す」本当に微妙だけれど違いますね。これは自分発ですから・・。

私は「何を成すべきか」それを知らないので、主のお導きがないかぎり何もしません。迫りが無いとこれ幸いと、何時までものんびりを楽しんでいます。

でも、ヨルダン川に差し掛かかった時、御声を聞くなら岸いっぱいの激流に足を踏み入れるに躊躇しないように、みことばを聞いたときから備えることだと思います。

その時自分の判断を差し挟まない為に、主への信頼を育むこと。それは日々の小さな事どもを御声の中で処理する習慣からでしょうけれど・・。
エシュコル
微妙・・・
http://hswofach-wtl.jugem.jp/
自分が信頼してみことばを宣言し続け御わざがなされるのと、主の語り掛けがあってその通りにして御わざがなされるのとでは、やはり違いがある様に思える。具体的には言えないのでもどかしいのだが。
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