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石ころ

御名を呼びつつ

 問題の最中にも主への信頼があり、心の深いところで静まることができて、「イエスさま、イエスさま」と御名を呼んでいたけれど、問題は驚くほどあっけなく終わったと、試練の中におられた姉妹が話してくださった。いつまで続く苦しみかと思っていたのに、まるで潮が引くように問題は解決してすっかり解放されなさったとのこと。

「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」(マルコ4:39)

 私も信仰に入ってまもなくの頃は、今よりもはるかに試練が多かった、そんなことを思い出させてくださった。試練によってみことばを求め、すがりつき、イエスさまという避け所に身を避け、その砦の確かさを知る。
だから、何も問題がないよりは信仰は成長すると思う。体験によって信仰の技術を会得することが出来ることは大きいことで、信仰のベテランは問題の度にすかさず主に逃げ込む技術に長けてくるから、何時までも苦しまなくてもよくなる。

最初の一歩は自力による戦いから身を引いて、主の砦に飛び込む必要があるのだけれど・・みことばのご真実を経験することができるなら、苦しみは何倍もの価値を生むことになると思う。主が私のことを心配してくださっていることを知るのは、永遠の約束に対しても信頼が深まっていくことだから。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(1コリント10:13)

そのような問題は、たいてい信仰に入る前に潜んでいたものが、表に現れてきたもので、解決のために主の御手かのべられたことから表面化してきたものであったりする。それは後になって知ることだけれど・・。

それに、やはり自分自身の問題を取り扱われたりすることもあるけれど、それだって愛する者に加えられる鞭は矯正のためであり、お側に近しく置いてくださるための教育でもあるから、主のお后教育のようなもの。素晴らしいことなんだ。

 親戚の端々まで深く関わって、私たちの生活は何処で何が起こっても、普通のおだやかな日々というものが脆く崩れてしまうもの。平凡な日々は、主が遠く私たちの知らないところにまで、御手を伸べて守っていてくださったからだと私は思っている。
今日、貴重な穏やかさの中に過ごさせていただいたことに、深い感謝もって主を抱きしめる。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

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