ペテロのしゅうとめも、イエスさまに熱病を癒された時、すぐに台所に立ってパンをこね、お茶を入れてイエスさまをもてなした。
死からよみがえらされた少女の両親に、イエスさまは食事をさせるようにとおっしゃった。死んでいた娘がよみがえったという、そんな驚きと喜びの非常時に、少女の母は台所でパンを焼き、肉を調理したのだろう。イエスさまはそのように、日常に戻るようお導きになったのだろう。
女は、たとえ国が戦争に負けた日でも、昨日と同じように夕食を考え台所に立ち働く。そんな絶対の日常を持っている。
涙を流しながら野菜を刻んだり、喜びにふるえつつも危なげなく魚を捌く。私が聖霊のバプテスマを受けたのも台所でだった。手に布巾を持っていたこと覚えている。
みことばを思い巡らせる時も、座って聖書を読んでいるときではなくて、掃除機を掛けているときだったり、洗濯をしている時だったりする。
そのことは、私の日常のど真ん中に主がいてくださるということだと思う。家庭の真ん中にいて下さり、家族の細々とした事さえ、すべて知っていてくださり、地域にいつの間にか影響を与えてくださるお方。
私は此処で主に守られ、教わり、恵まれてきた。私は本当に泥臭い、こてこての生活派?クリスチャンなんだろうな。
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