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石ころ

生活の中で

主のお恵みによって、あり得ないことが起こったと感謝にひれ伏しても、立ち上がった時には台所に立って、献立を考えジャガイモの皮を剥く。
ペテロのしゅうとめも、イエスさまに熱病を癒された時、すぐに台所に立ってパンをこね、お茶を入れてイエスさまをもてなした。

死からよみがえらされた少女の両親に、イエスさまは食事をさせるようにとおっしゃった。死んでいた娘がよみがえったという、そんな驚きと喜びの非常時に、少女の母は台所でパンを焼き、肉を調理したのだろう。イエスさまはそのように、日常に戻るようお導きになったのだろう。

女は、たとえ国が戦争に負けた日でも、昨日と同じように夕食を考え台所に立ち働く。そんな絶対の日常を持っている。
涙を流しながら野菜を刻んだり、喜びにふるえつつも危なげなく魚を捌く。私が聖霊のバプテスマを受けたのも台所でだった。手に布巾を持っていたこと覚えている。

みことばを思い巡らせる時も、座って聖書を読んでいるときではなくて、掃除機を掛けているときだったり、洗濯をしている時だったりする。
そのことは、私の日常のど真ん中に主がいてくださるということだと思う。家庭の真ん中にいて下さり、家族の細々とした事さえ、すべて知っていてくださり、地域にいつの間にか影響を与えてくださるお方。
私は此処で主に守られ、教わり、恵まれてきた。私は本当に泥臭い、こてこての生活派?クリスチャンなんだろうな。

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コメント一覧

石ころ
エシュコルさとやんさん
私はニッポンキリスト教をあまり知りません。
でも、聖書を正しく、まともに語らない教会は知っています。
主との日々の幸いを得られて良いですね。
石ころ
saltさんコメント感謝します
ああ、羊飼いダビデ。
ダビデは荒野で、獅子や熊に勝利させてくださる主を知り、そこで信仰を育まれのですね。

このように聖書を読むことを教えてくださって感謝しています。
エシュコルさとやん
ルークさんがニッポンキリスト教はおかしい、世の中の方がまだマトモだと言ってますが、これほど酷いとは正直思わなかったですね。13日水曜日沖縄リバイバル教会の裁判は被害者側の完全敗訴だったそうです。「随想 吉祥寺の森」や「ガリラヤへ還ろう!! 2008」 でもソルトさんが言われる様に、「しるし」「預言」「不思議」などを追い求めた結果が今にあり、ルークさんが礼拝でよくいつも言われる様に、又「山谷真救世軍小佐」のブログでも書いてある様に、「私が 私は 私に 私を」が邪魔してますね。「キリスト教の問題は、信仰を非日常化してしるし、不思議体験にしてしまったこと」又、「教会生活という非日常の中で自分を演出しようとするから、よけい見苦しくなる」まさしく指摘された通りです。本当に日常の出来事をやりながら、主と共に過ごす幸いを今ひしひしと少しずつながらでも体験させていただいてます。
Salt
絶対の日常
「絶対の日常」ということばに非常に力強いものを感じます。

家事の中の恵み、仕事の中の喜びにこそ、主が働かれます。

キリスト教の問題は、信仰を非日常化して、しるし、不思議体験にしてしまったことです。

男もしっかりしないと。仕事や家庭という日常に打ちのめされたヘタレな連中が、教会生活という非日常の中で自分を演出しようとするから、よけい見苦しくなるのだというのが、私の理解です。


顔つきや言葉遣いまでに非日常的になる「教会カルチャー」はまさにビョーキの巣窟。

サウル的な帝王学より、ダビデの羊飼いの日常のほうが、遥かに勝っています。

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