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石ころ

教会への道すがら

 駅から教会までの道は、歩道沿いに田圃が広がっている。時折そこから涼しい風が吹き上げてくる。「主よ。感謝します」言葉にもならないけれどそう思って淡々と歩く。日傘は差しているけれど、舗装の道は照り返しが強くて顔が熱い、下からでも日に焼けるのかしら・・そんなちょっとのんきなことを思たりしながら歩く。

 時々歩きながらペットボトルの水分を取る。これは年を取ると大切なんだそうだ。体が鈍くなって必要を感じにくくなっているからという。
体だけではなく、人は自分の本当の必要を感じることにとっても鈍感なものだと思う。魂のカラカラな状態にも気づかないで、大汗をかいて世を走り回っていたりする。

 私はなぜ此処を歩いているのか・・
それは私の願いを主が許してくださったから。
真剣な準備をもって備えて下さるsaltさんのメッセージに感謝しているから。
聖書を通してもっと主を知りたいから。

それもあるけれど、でも何だかちょっと違うな・・。
「今私は、歩けるから」本当はこれだ!
「そこに山があるから登る」そんな言葉を聞いたことがあるけれど、それは彼らが山を愛しているから。そして私はイエスさまを愛していて自然に体が動く。人は愛するものに向かって行く時が幸せ。

勿論、日々イエス様と居てそれが私の日常、いわば山に住んでいるってことなのに、なを高い山にも登りたくなる。この日は非日常、そのどちらも私には必要。何をすると言うことでなくても良いけれど、主が巡り合わせてくださった兄弟姉妹の交わりの中に居たいから。

 身ひとつでウオーキングするときと違って、背中の聖書はちょっと重い。もうちょっと賢い方法があるだろうけれどそんなこと考えたくない、私は頑固。それに、「賢い」ってなんだろう・・・。「馬鹿正直」っていう言葉さえ、もうこの世から消えてしまったような現在。でも、賢くなって失ってしまうものも沢山ある。その時に失うものはほとんど目には見えないものだから人は気づかないけれど・・。それはとっても大切なもののような気がする。

 車道の前方に車が止まった。嬉しい見慣れた車。saltさんご夫妻が待って下さっている。「どうしていつも、こんなにタイミング良く出会うのだろう?」挨拶をして飛び込むとそこからは天国行き!別に死ぬわけではなく、涼しく居心地良く、何時もかずさんが早くに行って冷やしてくださっている教会へ直行。こんなことがすご~く感謝、嬉しい。

 帰りはほとんどk姉妹に近くの駅まで乗せていただいて楽しいおしゃべり!年齢が近いので話がツーカーで通じる。ただのおしゃべりなら誰とでもできるけれど、主にある姉妹でなければ通じないことがある。その上教わることがとても多い。彼女は主人の畑の先生。私は伝達係。

 電車は緑深い山間の線路を、ガタンガタンと家路に向かって走っている。
メッセージの余韻・・・。ああ、本当に良い畑しか実を結ぶことは出来ないんだ。聞き方ひとつでみことばは愚かにも聞こえ、むかつく言葉にもなってしまう。そんな人の心をご存じの神様は、お人好しの農園の主人としてたとえ話の中に出てこられる。人の目にはバカバカしいほどの忍耐を持って、私たちの人生に介入しようとされる。そのことは、私たちがそれほどに愛されているということ。

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