石ころ

呆け

  
今は認知症というらしいけれど、呆けの方が自然な感じがする。年を取れば大なり小なり呆けっぽくなって、天然なんだか、病気なんだか、演技なんだか分からなくなって、それが本人にも分からないところが年の功。

深刻な症状に本当に悩んでおられるご家族もおられ、それも人ごとではない立場だけれど、「まあ、良いじゃないの」と思うことも結構ある。そう思うのが私の天然なところだけれど・・。ちょっと変なことくらい受け取る方に余裕があれば「?」で終わること。

テレビで認知症の番組を見たり、インターネットで調べていると、だんだん自分が認知症だと思えてくる。合う症状が結構あるからこれは困ったことだと思いつつも、認知症と健全との境目は何処にあるのかと考えるとわからなくなる。こんなの判断出来る人はさすがに専門家なのだろう。だって人は生きているから絶えず揺れるもので、体の部分も毎日のように、何かが良くなったり悪くなったりしている。

特に年を取ると、朝は元気だったのに夕方にはひどく気分が悪くなったりすることがあり、病気かと思うけれど次の日にはケロッとしているから、どこで切り取って判断するのかで全く違ってくる。近頃は最悪で切り取って、即、検査と薬ということで長寿のめでたいお国(破綻しかけているけれど・・)だけれど、私は願わくばできるだけ自然に老いたい。

安心して呆けられるといいなあ・・・。年を取って病気になっても家族とゆっくりと最後まで自分の慣れた日常の中で過ごせたらいいなあ・・。無理に生かさないで、食欲が無くなったら「もう食べなくても良いよ」と言って欲しい。枯れ木のようになって穏やかに死にたい。本当に今一番恐いことは死ねないことのような気がするから。

「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」イザヤ46:3.4

なんだか胸がいっぱい・・・「主よ。感謝します。」

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コメント一覧

石ころ
待ち遠しいです
ああ、本当にそうなのですね。
「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」
主に背負われることに、なんだかこんな甘さを感じます。

2週も礼拝が空いたので、来週の礼拝が待ち遠しい今日です。
Salt
いつもいつも,どんなときも主がともにいてくださる。その幸いに気付くことなく,「あのことはうまくいった」「このことはだめだ」と言って一喜一憂する自分が恥ずかしくなるときがあります。背負われ上手になりたいものです。
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