主人と二人の穏やかで平凡な朝に感謝や喜びを感じる。一日一日が貴重だから今の平和が身に染みる。それでも、現実問題として調べるべき事を調べて備えた。
でも、新しい命が生まれてくることも、年を取って衰えてゆくこともとても自然なことで、別にジタバタすることではないと思った。生まれた限りは必ずどのような形でか、この世を去って行く。まして、クリスチャンにとってはそれこそ望む所。
嵐が来る予報の中でも今日の晴天を喜んで洗濯ができる。台風の目の中に居ても一時の晴れ間を喜ぶことができる。それが主のくださった平安。明日のことは明日、いや主が心配してくださる。私たちが歩けなくなったら主が負ってくださる。信仰のない者にも信仰を導いてくださる。本当に信仰は主が下さるものだから。
今週の日曜日に、次男とⅠコリント4章を読んでいて共に感動をした。
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」Ⅰコリント4:5
「なぜ称賛なんだろう。私たちの何が褒められるのだろう」と二人で考えた。神様に褒められるなんて?厳しい裁きの言葉ではないのか・・
「ああ、そうか!」イエスさまの十字架があるからなんだ。もう、罪はイエスさまが負って罰せられてくださったから、イエスさまに身を寄せる者に残っているものは、褒め言葉だけということかなのか!神様が私たちの心の内を明らかにされるのは、罪をあぶり出すことではなくて、私たちがすっかり忘れているような小さなこと、主の弟子に水一杯でも飲ませてあげたことを、明るみに出してくださることだった。
私たちは十字架にとても深い感謝を覚えた。主はなんと弱い者にも恵みに満ちた御方なのだろう!次男は、ひとりで聖書を読んでいる時も、主が導いてくださるようにと祈っていた。そう、私たちの出来ることは主を知ること。この大きな恵みを知ること。
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